「料理屋の話 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

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「料理屋の話 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

落語に、「百川[ももかわ]」というのがある。町内の役つきの者たちが料理屋の百川に集って、祭のとき起った隣町との揉め事を片づける相談をしている。ちょうど店へ奉公にきたばかりの田舎者が、隣町から話をつけにきた男と間違えられ、いろいろおかしなことが起こるという話だが、百川とは日本橋本町三丁目裏河岸にあった実在の懐石料理屋で、江戸のころ、浅草新鳥越二丁目の八百善と肩をならべた大きな店であった。
八百善は代々、あるじを善四郎と言い、庭も凝ったもので、二階建になっていた。あるとき意地の悪い食通が来て、茶漬を食わしてくれ、と言うと、ずいぶん長いこと待たせてから、茶漬に香の物だけが出た。勘定を払うときになると、書出し、つまり請求書に十両とあるので、さすがの食通もびっくりしたが、八百善はわざわざ玉川まで駕籠を走らせて水を汲みに行き、それで茶を淹れたので、高い茶漬についたのだという。だが、どうもこの話はこしらえ物らしい。
百川も八百善も、裕福な商人はもちろん、幕府の高官、諸大名の江戸留守居など、金まわりのいい客が利用した。八百善には料理切手というのがあり、いまで言えば商品切手のようなもので、進物に使われた。五十両の料理切手を、公儀出入りの商人が幕府の納戸頭へ進物した、という話もある。旗本屋敷でその料理切手を使い、客をするときは、八百善から材料一切、器まで運んで、板前をはじめ料理人たちがついて行った。
いまは板前という名称が、大そう無造作に使われている。寿司屋の板前、などという言葉が平気でテレビなどに出てくる。寿司屋の板前、というのはおかしい。板前料理と看板をかけた小料理屋もあるが、昭和初年までは、料理屋の板前は大そう見識を持っていた。
いまは変ってしまったが、むかしの料理場は、正面に文字通り大きな料理板を前に、料理人の束ねをする者が坐っている。板の前にいるから板前で、横に脇板という助手が坐る。その下に焼き方、煮方、洗い方、追い廻しと、それぞれ分担に応じた料理人がいる。料理場の雑用をやる追い廻しから、板前になれるまでは、早くて十年かかった。
百川や八百善でも、料理一切にかけては、主人よりも板前のほうが権限を持っていた。河岸への買出しに行くのも板前で、料理については主人も口出しが出来ない。店そのものよりも、板前に客がついている、ということが多かった。だから、どこの店の板前が主人と喧嘩をして、ほかの店に移った、と聞くと、客もそのまま移って行く場合が多かった。
大きな料理屋では、板前に女中が一人ついていて、世話をする。その板前が昼飯を食べるとき、脇板がこしらえる。だが、一箸つけただけで板前があとは食べないと、その脇板の料理は落第ということとなる。
料理を作るとき、煮方は煮方、焼方は焼方で、それぞれ仕事があり、板前は正面に坐って、料理場全体に眼を光らせる。吸物の味を見たり、料理の盛りつけに注意する。脇板の作った刺身を器にならべるぐらいが、板前の仕事だが、すべての責任は自分の肩にかかる。しかし、客の座敷には顔を出さなかった。
一人前の料理人になるまでには、旅をして修業を積む。刺身包丁、出刃包丁、薄刃の三本を油紙で包み、諸国の料理屋に住み込んで働く。料理人独特の辞儀を切り、映画や芝居などで仁義というほうが通りがよくなったが、店の裏口から入って挨拶をする。
その店で半年か一年、働いてから、ほかの土地の料理屋への添状をもらって、また旅に出る。もちろん博奕打とは違う辞儀を切るが、これは料理人に限らず、江戸から明治にかけて、土工、石工、大工、左官など、大ていの職人は旅で修業した。
正式に板前の免許をもらうには、料理の司家、京都の公家四條家に行って、包丁式というのを見せ、一種の試験を受けてからであった。音曲などでも、いちいちその道を司っている公家へ行って、免状をもらうが、徳川中世から、それぞれの司家の出張所のようなものが江戸にも出来て、そこで免状を与えた。いまでも、烏帽子狩衣姿で包丁式を見せる店がある。
江戸にも上方にも、料理人の元締がいた。そこには洗い方や追い廻しなどの職人がごろごろして、料理屋から口のかかるのを待っていた。いわば、料理人の周旋屋であった。だが大きな料理屋では、追い廻しのころからの子飼いの料理人がいるので、流れ渡りの職人は傭わない。寛文のころまでは、江戸に正式な料理屋というのは少く、菜飯田楽、茶飯、茶漬、湯豆腐ぐらいのもので、次第に鰻、天ぷらなどの店が流行しつきた。寿司も、はじめは米を使わず、おからの上に小はだを乗せた粗末な食物であった。
八百善や百川、それに柳橋の川長などという料理屋が繁昌したのは、徳川中世からで、豆腐料理などは酒をのんで一人前二百文足らずで済んだ。しかし、名の知れた料理屋では、箱が入る、つまり芸者も呼ぶので、一人で一両近くかかる、と見ていい。
たとえば旗本が新規に役につくと、組頭をはじめ同役たちを料理屋に呼んで、接待をする。芸者が会席膳をささげ、裾をひいて座敷へ入る。膳の下には、それぞれ金一封が置いてある。中には意地の悪い組頭などかいて、いちいち料理や酒に難癖をつけ、酔ったふりをして膳を引っくり返したり、床の間に小便をしたり、ひどいいやがらせをする。こういうときの料理屋は、いい面の皮だが、対手は旗本なので文句も言えない。
「神明恵和合取組[かみのめぐみわごうのとりくみ]」という歌舞伎狂言は、め組の鳶の者と相撲取の喧嘩が芝居になっているが、焚出し喜三郎の家の場である。喜三郎は、諸大名や旗本が賦役の普請工事をするとき、現場の人足たちの弁当を入れるのが商売だが、暇乞いに訪ねため組の辰五郎へ、喜三郎が鈴木の鰻を取って振舞う。一串二朱、という台辞があるが、箱に二串入っているから一分になる。鈴木というのは当時有名な鰻屋だが、それにしても一串二朱は高すぎる。芝居の嘘でそうしたのであろう。せいぜい高くて鰻の蒲焼一人前は一朱ぐらいで、どぜう鍋は二百文であった。
職人たちの行く縄のれんの店は、飯台に床几で、酒は銚子ではなく、ちろりを使った。軍鶏鍋二枚に酒を五本のんで、高いところでも一朱で足りた。安いのは、三本も飲んで肴を二皿ほど食べて五十文ぐらいであった。
このごろテレビを観ていると、侍や町人の家で、平気でチャブ台を出すが、あれはおかしい。商家では、あるじから小僧に至るまで、それぞれ箱膳で、大そう便利に出来ている。料理屋では会席膳、あるいは猫足の膳、広蓋という平たい膳を使う。チャブ台を使うようななったのは、明治に入ってからであった。
しかし、やはり昔から料理は、京都大坂の方が優っていた。