2/2「研究とエッセイと - 山本博文」こころを言葉に-エッセイのたのしみ から

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2/2「研究とエッセイと - 山本博文」こころを言葉に-エッセイのたのしみ から

一例をあげてみよう。寛政改革の頃、老中首座松平定信は、家臣水野為長に命じて、江戸城内や江戸市中の出来事や噂などを調査して、報告させていた。この書物は、それぞれの文章が「......の由」という言葉で終わるため、「よしの冊子」て名付けられた。原本は滅失し、国会図書館に写本のみが残されているが、幸い中央公論社の『随筆百花苑』に収録されて活字で読むことができる。
この書物には、殿中(江戸城内)で人事が通達される時期の、旗本たちの行動が書き留められている。
定信が老中首座になった翌年の天明八年(一七八八)九月下旬、幕府諸役の空席がいくつも出たので、旗本たちは後任人事の発表を今か今かと待っていた。同月二十四日には、役替えが命じられる役職が示されたので、「そりゃ、二十六日には御役替えが発表されるだろう」と殿中はさざめき、「何役は誰であろう」「これは何役だ」とさまざまに噂された。
駿府町奉行依田五郎左衛門は、「よくても悪くても明日はお召しがあるだろう」と、二十五日は、一日中自宅で立ち通しで老中奉書が来るのを待っていた。役替えが命じられる時は、前日、老中から奉書が来る。これは「明日、何時に登城せよ」という指示であるが、その時刻によって、栄転か左遷かがおおかた推測できた。奉書が来なければ、その回の昇任はないということである。結局、依田は、その日のお召しはなく、十月十九日になって御留守居番に役替えになる。格は高いが閑職で、左遷に近かった。
殿中では、九月十日に京都町奉行へ栄転していた井上美濃守が、「おれは何の構いはないが、明日召される人の評判を聞いていこう」といって、居残っていた。しかし、二十六日には誰も召されなかった。
二十八日、何人かの者が殿中に召された。そのことを聞いて、「伊藤河内守は普請奉行に違いあるまい」と評判され、ほかにも、堀帯刀が駿府町奉行、松平左金吾が浦賀奉行、山本伊予守は御目付、中川勘三郎は御徒頭、新庄惣右衛門は御手先[おてさき]であろう、などと噂された。
実は、これらの予想はまったく外れている。いつ誰がどの役職に任命されたかを調べるためには『寛政重修諸家譜』や『柳営補任』などの史料の方が有効なのだが、こうした記録があることによって、当時、これらの人物がどのように評判されていたかがわかる上に、そもそも幕府の人事発表がここまで旗本たちの関心事だったことが窺われて非常に興味深い。そして、こうしたことは、論文の形で書くことは難しいが、エッセイの場であれば書けるのである。

このうち、御先鉄炮の頭で火付盗賊改めも務めたことがある堀帯刀は、持筒頭[もちつつがしら]に役替えになった。駿府町奉行への栄転はならなかったのだが、実は堀は老母を抱え、できれば遠国への赴任は避けたい、と下馬評にのぼった時に語っていた。このため、持筒頭への役替えには満足で、親しい者を訪問した時、たいへんありがたがっていたということだった。
小普請組頭だった中川勘三郎は、御目付に抜擢された。下馬評は御徒頭だったが、それをとばして一挙に御目付である。小普請の組頭からの昇進はそれまで前例がないということで、中川もありがたいやら畏れ入るやらで天にも昇る心地だった。
こうして書いてあくときりがないが、歴史の一断面を切り取るエッセイという表現方法は、研究論文を補完するだけでなく、それとならぶ重要な手段だということができる。研究史を顧みると、かつて法制史学者の石井良助氏が『江戸時代漫筆』というシリーズで、膨大なエッセイ集を残している。氏の専門論文集は江戸時代の法制を学ぶ上で必読の文献であるが、『江戸時代漫筆』もまた専門論文では窺い得ない氏の博識と史料調査ぶりを見ることができるのである。
ただ、氏ほどの大家ともなれば文句をつける人もいないが、若手研究者がこうしたことに手を染めると、「落ち穂拾い」などと揶揄される。まず、本筋の研究に精力を傾けよ、いうことであろう。それは確かに大切なことだが、研究が進むほどに落ち穂は増えてくるのであって、たまにはその収穫があってもよいのではないかと思う。そのためには、エッセイの執筆にも論文執筆なみの調査が必要であろうし、優れたエッセイに対する正当な評価も必要であろう。
私の経験から言えば、やはり論文や著書を書こうとさまざまな史料をやみくもに読んでいると、エッセイのネタは無尽蔵に手に入り、エッセイ執筆のために史料探しなどしていると、苦痛であるばかりではなくなかなかいい話が見つけられない。つまり、優れたエッセイが書けている人は、本業もおろそかにしていないということなのである。