「横浜の舟待ち - 大佛次郎」日本の名随筆79港 から

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「横浜の舟待ち - 大佛次郎」日本の名随筆79港 から

成島柳北[なるしまりゆうほく]と言うのは幕府の旗本で「柳橋新誌」の著者。幕府が瓦解してからは招かれても明治政府に仕えず無位無官で終始し、後に新聞界にはいり朝野新聞の社長となり雑誌「荷月新誌」なども発行して、明治の文人として名を知られた。
この人物が、漢学者の家に生れて二十歳で将軍の侍講までつとめたのに、早くから洋学に関心を持ち外国のことを研究し始めたハイカラだったので、幕府が軍制を改めて洋式の軍隊を作ろうとした時に登用されて、横浜に新しく設けた陸軍伝習所の監督として赴任した。やがて騎兵奉行になり、洋式調練の教師として招かれて来たフランス軍人シャノワン大佐に協力して、近代式騎兵を編成する努力をした。学者の家に生れ、柳橋の花街で通人だったお旗本が急に軍人になったのである。横浜に設けられた伝習所と言うのは、野毛と太田の間にある陣屋ヶ原と呼ばれた土地であろう。私は子供の時分、その赤土の原っぱで子供仲間で遊んだ記憶がある。
幕府の上層の者が保守的でわからすやなので思うように意見が用いられない。怒って、騎兵奉行をやめてしまった。間もなくまた時代が彼を必要としたので、呼び出されて外国奉行となり、三千石貰って成島大隅守を名乗るようになった。しかし間もなく、政府は瓦解し、大隅守の成島柳北は、隅田川のほとり、向島の奥に隠れて、世間に出ず、その後「柳橋新誌」第二編をあらわして、薩長の田舎侍が政府の官員となり柳橋で遊ぶようになってから、女たちに昔の意気地や達引[たてひき]がなくなって万事金で片付くように柳橋も堕落したものと、いろいろ実話を並べて、変ってしまった世態人情をからかっている。すいもあまいもわかる江戸のお旗本の最後の一人である。気節(バックボーン)があるから新政府に招かれても出て仕えない。やがて新聞にはいって、政府を批評し悪政を攻撃する立場に立った。
幕末に騎兵奉行として横浜にいたことだし、また漢学者の子のくせに早くから開化的でハイカラだったせいもあって、柳北は明治になってからも、関西に行く時や、箱根、熱海に遊ぶ折りに、よく横浜に来ている。汽車がまだない時代だから、横浜まで来て旅館に泊まり、汽船を待って乗る。陸路の東海道を歩いて行くより便利だからいつも利用したらしい。紀行文が残っている。明治二年雨月と言うと、幕府が前年に崩壊し、柳北も外国奉行をやめ失職した翌年だが、横浜に来て「桑名屋勘六」の家に泊まっている。桑名屋は船待ちの客をとめて世話した宿屋のようである。

「十五日晴、けふ出帆と聞きしが、十七日に延びしと主人より言ひ出でぬ。成斎と共に米国の汽船南会に赴き、乗船のこと約して後、長門楼に一酌し、それより昔の友なる鷲屋松屋など訪ひて帰りぬ。時辰器の三時に含雪亭に来よと、鷲屋より告げこしければゆきたるに、福田重固駿河より来て其席に在り、過ぎしことども物語して悲歎うち交りぬ。鷲屋のあるじ、二人の心を慰めんとて、小虎[ことら]といへる歌妓を招き興を沿へぬ。夜更けて桑名屋に帰れば、ここにも成斎が小美誉といふ妓招きて、酒宴のなかばなり、余は痛く酔しかば直ちに枕につけり」
桑名屋と言う宿屋、長門楼、含雪亭は料理屋だろうが、市中のどの辺にあったのか?鷲屋、松屋と言う古き友は何の職業か不明だが、柳北が騎兵奉行で横浜に来ていた時の馴染の人々であろう。福田重固と言うのは柳北と同じく幕臣で、駿河から来たと言うのは当時、徳川氏が駿河(静岡)に退いたのに、もとの旗本が無禄移住と言って、江戸を引き払って供をして行った者が多かったので、その中の一人であろう。江戸を官軍に明け渡したのが去年のことだから、おたがいに失職した古い友達が横浜の料亭で落ち合い酒となると、昔(近い)の話となり、何もかも変った境遇を物語って感慨深いことだったのに違いない。
「十六日朝、森兄訪ひ来たり。旅路のこと種々物語りす。肥前屋に往きて右兵衛に逢ふ。左兵衛もここに来て在り、又橘屋を訪ふ。橘嫗余に枕を贈りてはなむけとす。日暮鷲屋を訪ひ共に長門屋に登る(以下略)」
橘屋とあるのは何の店か。騎兵奉行の時の顔見知りで、そこの老夫人が舟旅のはなむけに枕を柳北にくれたと言うのである。なるほで、その当時の船旅には枕を持参する方が好都合だったのだろう。長門屋は、前の日の長門楼で、舟待ちのたいくつさに二日続けて行ったわけである。

「帰路、内田九市と蓮杖との両家を過ぎ、旅窓のうさを慰めん為に、旧知の写真を買ひ去る。内に榎本武揚氏有り、之が為に惨然たり」
蓮杖はもとより日本の写真の開祖下岡蓮杖が、弁天通りに出していた店で、そこに寄って古い友人たちの写真があるのを見て、買った。亡びた人々なのである。その中に榎本武揚の写真があるのを見て、胸をしめつけられる思いがした。幕府の海軍奉行だった榎本が幕府の軍艦をひきいて蝦夷地に逃れ、函館にたてこもって、官軍に抵抗し、まだこの時分は孤立無援の悲壮な戦闘を続けている最中だから、友人としてその写真を見て感慨無量だったのである。
翌る十七日に柳北は舶来したナポレオンの伝記を買ってくれと友人に頼んでいる。午後になって乗船、米国のオレゴニアン号である。
「第五時出港、この夜月いと明かなり」
神戸についたのは、三日後の十九日である。東海道に「ひかり」どころか汽車を通じてなかった時代の「西京行」の舟待ちの様子がわかって面白い。
「米国の汽船南会に赴き」とあるのは、商会の活字の誤植か誤記だろうと思うが、日記に出ている人名や屋号について、記憶を持っているひとはないだろうか?百年前のことが、もう判らないことばかりになった。小美誉、小虎などの美妓も、去年[こぞ]の雪、今いずこ、である。