「道草 - 吉田健一」中公文庫 汽車旅の酒 から

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「道草 - 吉田健一」中公文庫 汽車旅の酒 から

旅行をする時には、普通はどうでもいいようなことが大事であるらしい。或は、旅行をしなくてもそうなのかも知れないが、例えば、東京発午前十時何分かの汽車に乗るのに、十時少し前に東京駅に着いてゆっくり間に合うというだけでは、何か気がすまなくて、なるべくならばその又二十分前に行くことを心掛ける。別に、遅れてはと思うからではないので、その程度の時間があれば、改札口を通る前にあの乗車口の中を右の方へ行った所にある食堂に寄るのである。始終、御厄介になっているのに、その名前が浮かばないのは申し訳ない気がするが、それ程、いつもあの右の方へ行った食堂ということが念頭にあるのだということで勘弁して戴きたい。確か、精養軒だったと思う。併[しか]し精養軒でなかった場合に、そう言っては却って悪い。
兎に角、食堂に入ってどうするという訳でもないので、第一、直ぐ入るのではない。食堂の入り口の右側に、色々な食べものの見本を並べたガラス張りの棚があって、先ずここで何を頼もうかとあれこれ眺め廻す。決して山海の珍味が陳列してあるのではないが(そんなものは駅の食堂には不似合いである)、マカロニの上に肉の煮たのが掛けてある料理だとか、鶏が入っているサラダだとか、見ている分には如何にも旨そうで、かと言ってそんなものをゆっくり食べている暇がないことは解っているから、結局は中に入って、生ビールにハム・エッグスという風なことになる。これは、何も午前十時でなくても、夜中の十時でも、午後の三時でも、それで間に合う取り合せだから、無難である。そして注文したものが持って来られて、飲んで食べながら、これも、別にどうだというのではない。併し駅の食堂でそんなことしているのだと思えば、ビールも旨くなる。
全く、どうでもいいようなことであるが、これが長い旅に出掛けるのであればある程、汽車に乗る前にそういうことがしたい。その精養軒だか何だかは、駅の裏から入った場合で、八重洲口から行く時は、これこそ初めから名前さえも解っていなくて、その度毎に道に迷う、どこか二階の小さなビヤホールを苦労して探して入る。これも店の感じがいいとか、悪いとかいうのではなくて、寧[むし]ろ小さな店が二階の他の店の間に挟っているのだから、風通しが悪くて暑苦しいが、汽車の発車を控えて、まだ一杯飲めると思ったりするのは、それ自体が旅の気分である。駅というのは妙なもので、時間が全く慌ただしくたって行く感じがするのみならず、事実、時間が他所[よそ]とは違ったたち方をするのではないかと思われるのを、ビールの一杯、又一杯で、食い止めるのではなくて、何と言うのか、味うのである。併しやはり、廻りの空気に急かされるのに負けて、汽車が出る所へ行っても、なかなか出ない。
勿論、汽車が動き出せば、もうそれでいいという訳ではない。その点、東京発の汽車の多くは、少し遠くへ行くのならば食堂車が付いているから、暇を潰すのに便利であるが、上野発の信越線、北陸線などのには食堂車が大概ないのは、牽引力の問題なのだといつだったか、そういう係の人から聞いた。つまり、山がある為に、汽車が食堂車まで引っ張って走るのは不経済だということになるらしい。併しそれならばそれで別な時間の潰しようがあって、例えば、上野から北へ行く線はどこか東海道線のとは違っている。汽車が止る毎に降りて歩き廻って見ると解ることであるが、一つにはこれは、改札口の向うにある町の景色がそうなのかも知れない。駅前からいきなり大きなビルが並んでいるというような所は少くて、多くはそこに広場があり、小間物屋や小さな食べもの屋が店を出しているのが、何となく入って見たくなる。夜になるて、明りが疎[まば]らなのが人懐っこくて、益々降りたくなる。
この頃はこういう駅の中で店を出している蕎麦屋がもりやかけだけでなくて、天麩羅だとか何だとか、種ものを作るのが多くなった。天麩羅といっても、もう出来ているのを積んで置いて、それを蕎麦の上に載せるのに過ぎないが、長岡駅にそういう小店が一軒あり、もっと先の新津駅にもあって、乗り換えの汽車が来るのを待っていたりしている時、よく一つ食べて見たいと思う。それをまだやったことがないのは、東京駅の食堂でまだマカロニに肉の煮たのを掛けたのを注文したことがないのと同じで、眺めているうちに面倒臭くなって来るのである。併しかけに生玉子を入れたのは随分、方々で食べた。それから、これは東海道の駅に多いが、生ビールをスタンドで飲んだこともある。そういう時には、いつ汽車が出るか解らないという気持も確かに刺戟になるようで、最後のビールの一杯、或はかけ蕎麦をすませて、まだ汽車が出そうな気配もないと、残りの何秒間か、ただそこにそうしているのが楽しめる。
飲んだり、食べたりばかりしていることになるが、他に実際に何もないのだから仕方ない。売店で雑誌を買うなどというのは、買えば少しは読まねばならず、そんなものを読むのでは家にいるのと同じである。駅の壁に掛っている温泉場の広告を見て歩くのは、それよりも少し増しで、何故か普通の人間の倍位大きく感じられる美人の顔がこっちを向いているのが、そこまで行って見たくさせる。大きな美人がいい訳ではないが、普通の人間の倍ならば、これも壮観であり、それ程大きくない美人もそこにはいるかも知れない。宿屋の写真が出ていれば、これも決って広大なものであって、そんな所に旅行案内などに書いてある一泊千何百円かで本当に泊れるのだろうかと思う。併し出来るのだと考えられる節もあって、それならばその広大な宿屋もこっちの手が届く所にあり、そういう所に一週間もいたら、こっちも結構ふやけてしまって、これは体にいいに違いない、という風な空想に耽る。
併し兎に角、旅行している時に本や雑誌を読むの程、愚の骨頂はない。読むというのは、そこにあることの方へ連れて行かれることで、新潟にいても、岡山にいても、北極のことが書いてあるのを読めば、自分がいる所が北極になる。又そうなる程度によく書いてあるものでなければ、読んでも仕方がなくて、自分が折角、岡山だかどこだかにいるのに、北極にいる積りになることはない。どうも、道草をして、旅に出ている気分になるには、飲んだり、食べたりに限るようである。駅の売店でかけ蕎麦を食べていても廻りの眺めは眼に入って、弁当売りの声を聞いているだけでも、自分が旅をしていることが感じられる。
汽車に戻ってからは、仕方がないから、隣の客の顔を盗み見していることにならない具合に、外の景色に眼をやってでもいる他ない。席で飲むという手もあって、勿論、飲むのであるが、それもしまいにはどことなく鹿爪らしくなって来て、つまらない。併しそのうちに汽車がどこか、自分が行く所へ着く。宿屋に着いたならば、寸暇を惜んでビールを持って来てくれるように頼むことである。酒でもいいが、これはお燗をするのに時間が掛って、目的は、宿屋に着いてからはどうせ何かすることがあるのに、それをしないで飲むというその心にある。その要領で、しなくてもいいことをする機会が幾らでもあるから、旅は楽しい。