「俳句における近代と反近代(一) - 外山慈比古」中公文庫 省略の文学 から

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「俳句における近代と反近代(一) - 外山慈比古」中公文庫 省略の文学 から

いまから五十年前、イギリスはケンブリッジ大学に、すこし風変わりな英文学の教師がいた。彼はあるとき、学生に作者の名を伏せた詩をいくつも読ませて批評を書かせた。こういう方法で読者にとって作者名がいかに作品の評価に影響を与えるか、あるいは誤解のもとになるかを実証的に追求しようとしたのである。
この人がI・A・リチャーズで、いまもアメリカで健在なのはめでたい。そのときの記録をもとにして書かれた『実践批判』(一九二九年)は、文学批判に大きな一石を投じることになった。
十九世紀的批判、つまり、作者の伝記を調べ、その知識を背景として作品を解釈して行く評伝批判の方法がこれで根底からゆさぶられることになったわけである。評伝批判が「作品よりも詩人を論ずることが多い」(T・S・エリオット)ことに割り切れないものを感じていた新しい批評精神がリチャーズの実験に注目しないはずがない。
リチャーズのやったことは、文学を作者ひとりの座から離して、読者の手に渡したことであり、作者、作品、読者の関係をコミュニケイションとしてとらえる、いわば読者批評である。
その影響はイギリスにおいては当初、むしろ消極的であったが、いち早くアメリカの批評に大きな変化をもたらした。ニュー・クリティシズム(新批評)が同じく読者批評の方法がをとったからである。「新批評」はリチャーズよりもさらに一歩進めて、作者の伝記は作品批評にとって不要であるという反歴史主義的態度を打ち出した。それが行き過ぎであることがやがて、反省されるようになった。そのため、さしもの隆盛をほこった「新批評」が運動としては比較的短命に終らざるを得なかったという見方もある。
しかし、リチャーズの仕事は「新批評」の消長とはかかわりなく、ますます高い評価を受けているのは注目すべきだ。二十世紀批評の巨人であると言ってよかろう。
その I・A・リチャーズの『実践批評』の方法を俳句に当てはめたらどうなるか。普通はそんなことを思いつかないが、そういう独創的なことをあえて行なった批評家があらわれた。ただ、それが戦争に敗けて、日本の伝統がすべてその責任を負わされているような時代であったことは、論者にとっても俳句にとっても幸福ではなかった。作者の名を伏せたら俳句は定立しない。大家の句も新人の作品も区別がつかない。作者のことを知っていてはじめてわかるようなのは近代芸術としての資格に欠ける、というのが、かの有名な「第二芸術論」であった。はたして大騒ぎになり、俳句にあまり関心のない人たちまでしきりにこれを話題にした。
第二芸術論で俳句は俳句らしさを暴露した。俳句の中に生きていながら俳句の姿を見すえていなかった俳人たちをおどろかせはしたかもしれないが、やはり受け入れてよかった洗礼であった。こういう批評の方法によって、俳句が近代的になり切っていないところがはっきり出た。何となく近代の芸術であるように思い込んでいた向きには衝撃的であったにちがいないが、こういう荒療治でもしないかぎり、俳句のつけていた近代性の仮面をはぐのは不可能であったであろうことを思えば、第二芸術論の歴史的意義は認められなくてはならない。
明治以来、俳句も近代芸術たらんとしてそれなりの努力はしてきたはずである。成果の方はともかくとして、革新への志向は一貫して認められるとしてよいであろう。すくなくとも俳句は居直って反近代を標榜したことはなかった。はたして俳句が近代芸術の枠の中へ入りうるものかどうか。そういう吟味をしているほど日本の近代は悠長ではなかったのである。近代芸術になることが俳句にとって喜ぶべきことかどうか、これは現在もまだ答えのはっきりしない問題として残っている。
俳句は近代芸術ではない - そういって、第二芸術論から烙印をおされたが、とにかく、第二ではあっても“芸術”であることは認められた。前近代的俳句も第二芸術までは経上がったことは認められたのである。そう思って喜べばいいと高浜虚子が述懐したと伝えられのはさすがである。第二芸術に対する俳壇の反応のうちではやはり群を抜いていると思われる。
しかし、たとえ第二という限定がついてはいても芸術と呼ばれることが俳句にとって真に幸福であるかどうかはまた別の問題である。俳句くらいは西欧先導の思考から解放されてもよいのではなかろうか。われわれが芸術というのはヨーロッパの近代芸術のことである。そういうものの概念規定に合致しないからといって、長い歴史と伝統をもつ文芸様式は少しも慌てるには及ばない。そう考えることはできないものか。