(巻二十四)くらがりに悪を働く油虫(山口波津女)

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1月7日火曜日

とじ傘

寒いが、明日は雨との予報なので散歩と買い物に出かけた。南コースで生協のイートインで百円珈琲であります。
イートインの利用者の分類に子連れのママという方々がおりまして、見比べていると育て易い子と扱い難い子との違いが大きいことが解る。
ママAは3歳くらいと1歳くらいの男児をつれていて長男にパン屋で買ったパンを与えているが、この長男が泣きわめくは駄々はこねるはの難物だ。ママAは大変だろう!次男坊はママAの背中でおとなしくしているので何とかママAも我慢できるのだろう。しかしこれから男児二人を少なくとも15年間相手にして人生を送っていくだから大変なことだろうとやや同情的になった。
更に観察を続けるとママAは実に平静な心を保てる女性だということが分かってきた。長男の振る舞いに苛立つことなく、叱ることもなく、かといって甘えさせるわけでもなく、淡々と長男の食べ物を食べやすいように切り分けて用意し、手を拭いてやり、口の周りを拭いてやり、パンの残りを自分の口に放り込み、テーブルを綺麗に後片付けして出て行った。あのママなら、殺してしまうことはまずあるまいと思うに止まらず、尊敬の念を持って見送った。
その後にママBが6歳くらいの長女、4歳くらいの長男、2歳くらいの次女を従えて入ってきた。こちらの子供たちは実に静かな子供たちであり、行動も自立的でありかつ自律的なのである。二女はともかくとして、長女・長男とママBとのコミュニケーションは大人同士のような端正さがあるのである。カップ麺を食し始めたが、長男は給湯器横に置かれた小さな紙コップをとってきて麺を少しずつ取り分けて食べやすくして食べ始めた。長女はこれを由しとして、自分も紙コップを取りに行き、二女の分と共に二つとって来た。この間ママBはほぼ無言である。子供三人とママBはそれぞれに眼では会話をしているが、言葉はなく、サクラダ・ファミリアの食事が粛々と続いていた。

風邪うつしうつされわれら聖家族(伊藤白潮)

そんなわけで、コチコチ読書進まず!

包丁

魚を焼く調理はあたしの担当となった。魚は鮭が鰤です。醤油と味醂で味付けをしてフライパンにアルミホイルを敷いて焼くだけです。
タバコ止めて、殆ど間食をせず、頂く量も抑えているので三食ともとても美味しくいただける。
蕪の御味御汁が、これまた美味しかった。
老夫婦の食費と云うのはまあそれほど掛かるものではないな。

蕪汁に世辞なき人を愛しけり(高田蝶衣)

ブックマーク

今日の句が俳句なのかどうかわかりませんが、著名な俳人が作ったので俳句なのでしょう。

「俳句における近代と反近代(一) - 外山慈比古」中公文庫 省略の文学 から

《 その I・A・リチャーズの『実践批評』の方法を俳句に当てはめたらどうなるか。普通はそんなことを思いつかないが、そういう独創的なことをあえて行なった批評家があらわれた。ただ、それが戦争に敗けて、日本の伝統がすべてその責任を負わされているような時代であったことは、論者にとっても俳句にとっても幸福ではなかった。作者の名を伏せたら俳句は定立しない。大家の句も新人の作品も区別がつかない。作者のことを知っていてはじめてわかるようなのは近代芸術としての資格に欠ける、というのが、かの有名な「第二芸術論」であった。はたして大騒ぎになり、俳句にあまり関心のない人たちまでしきりにこれを話題にした。 》

本

花月西行(其の二) - 上田三四二新潮文庫 この世この生 から

を苦戦しながら読みました。

西行を兼好から区別する最大の目じるしは何か。
兼好が後世抜きであるのに対して、西行には後世が信じられている。兼好の生は「死の瞬間における死」である滝口に終る。身の終りがすなわち魂の終りである。しかし西行の魂は身の終りの後にまで生きのびて、滝口は絶望的な存在の消滅を意味しない。死の瞬間は西行にとってももちろん劇的であり、西行の場合とりわけ劇的であったといわねばならないが、しかしそれは悲劇的でも絶望的でもなかった。
西行に本当に後世は信じられていたか。信仰の深さのほどはしかと定めがたいが、西行が死後にたいして或るイメージを抱いていたことだけはたしかと思われる。兼好とちがって西行は「死のむこう側の死」を視野のうちに取込んでいるのである。 》

で始まっているが、纏めは、

《 この花月への憧れの極まるところに死を見たのが、「願はくは」の一首だが、しかしその死は「死の瞬間における死」であって、「死のむこう側の死」ではなかった。「死のむこう側の死」は、「来む世には」「仏には」の二首においてすでにみたように、「願はくは」の歌の持つ緊張と高揚を持続し得ていない。持続しようとは願っている。その願いが、「心のうちにあらはさむ」という意志の表明となり「桜の花をたてまつれ」という供養者への要請となっているが、ここで注意すべきことは、死者としての西行の意志の表明なり供養者への要請なりが、月と花という、彼が生前、いのちにかけて憧れわたった美の景物であるということだ。言いかえれば西行の死後は、彼の生前の延長として考えられ、そのようでありたいと希望されているのである。
生前の延長としての西行の死後は、その生前の憧れの完成と言い得るか。言い得ないことは二首の死後の歌に見るとおりであり、そこにあるのはむしろ、生への飢渇[きかつ]ではないだろうか。》

死後などはなし凍裂[とうれつ]の岳樺[だけかんば](高野ムツオ)

死後なんぞあつてたまるか仏の座(駄楽)