(巻二十五)臨終の一と声「ああ」枯世界(池禎章)

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(巻二十五)臨終の一と声「ああ」枯世界(池禎章)

 

2月26日水曜日

 

巻二十五の巻頭句です。

死ぬという意識があっての「ああ」なんでしょうか?

 

春の夢みているように逝きにけり(西原仁)

 

が理想です。

 

こんなときに何ですが、細君とヤカンとフライパンを買いに駅前まで出かけました。

ヤカンは全体量が3.1リットルで適正湯沸かし容量が2.1リットルの笛吹ではないものを選び、フライパンは直径24センチの物を選んだ。フライパンにも流行があるのだろう。今は随分深いフライパンばかりである。

 

朝一で入ってさっさと買って帰宅しました。雑踏には紛れていないが、バスはやや混雑していた。

 

履歴書を送った事業所から面接の日程を連絡してきた。受けてみましょう。職安から少なくとも四人は送り込んでいるようなので狭き門でありますよ。

 

 

「郵便局の角で - 藤沢周平」文春文庫 小説の周辺 から

 

読みました。藤沢周平氏の体調がすぐれない時の随筆ようで、氏も滅入っています。

 

《 何日か前に、こういうことがあった。たまたま家の近くのひとが混雑しているスーパーの前を歩いていると、すぐうしろでゴツンという音がして、つづいて火がつくように子供が泣き出した。振りむくと幼児が地面にひっくり返って泣きわめいているのである。

子供が泣き、母親らしい若い女性は片手で荷物を押さえ、片手に自転車をつかんだみま立ち往生している。それだけの状況と、その子供は自転車の荷台から落ちて、歩道に頭をぶつけたのではないかということを理解するまで、ちょっとの間があった。私はしばらく泣きわめく子供を眺めていたようである。

と思う間に、誰かが赤ん坊を抱き上げて母親に声をかけた。まわりには大勢の女のひとがいて、そのひとたちも私と一緒に一瞬状況を眺めたようだった。だが私も、その母親と赤ん坊のすぐそばにいたのである。それなのに、まったく手が出なかったのだ。

そのことが、歩き出したあとも私にショックを残した。反射神経が鈍くなったな、私は思ったが、それだけで片づかないこともわかっていた。たとえば感動的な小説は書けても、眼の前で歩道に落ちた子供を拾い上げられないようでは、人間として役立たずと私は思っていたのである。この種の過剰な自責ぶりというのも老化現象の一種かも知れないのだが、とにかくこの出来事で、私は自分の人間としての衰弱ぶりに気づかされて唖然てしたというぐあいだったのである。》

 

あの藤沢周平氏にしてこうであります。

歳を取れば自己嫌悪は避けられない。

楽しく生きられる性格の方が羨ましい。