(巻二十九)分からん句その儘にして冷やかに(田中吉弘)

f:id:nprtheeconomistworld:20210528082735j:plain

f:id:nprtheeconomistworld:20210528082738j:plain

(巻二十九)分からん句その儘にして冷やかに(田中吉弘)

5月27日木曜日

小雨が降る中、泌尿器科へ出かけた。先月の採血の結果は、異常なしというか、数値の変動はなしであった。雨天のためか患者は少なく9時半に診察終了。薬局も受付番号3番ですぐに薬を受け取れた。普段より一時間ほど早く、10時に帰宅した。

急ぎ来る五月雨傘の前かしぎ(高浜虚子)

帰宅して朝食の食器洗い、布団片付け、洗面台の洗浄、昼食の仕度と家事をこなす。口は元気な彼奴が付きまとっていて苛々する。

午後は雨が本降りとなり外出せず。写真は午前に一撮したドクダミ

十薬の花をふやして家滅ぶ(高橋咲子)

本日は千八百歩で階段は1回でした。

夕飯には唐揚げ用鶏肉の醤油焼き300グラムと野菜の蒸し煮を拵えた。年寄りにはこれくらいで十分である。二品だがフライパン一つの料理である。

先ずニンジン、キャベツ、タマネギ、いんげんを適宜にカットして、深底フライパンに入れて水少々を加えて蒸し煮にする。味付けは塩・胡椒だけ。所要時間10分。

フライパンの水気を拭き取り、油を少々引いて鶏肉を焦げ目がつく程度まで焼く。鶏肉をフライパンに残したままで油を拭き取る。そこに水大さじ3杯、砂糖大さじ半分、醤油、味醂、酒各々大さじ2杯の煮汁を薄く流し込み、煮る。所要時間15分。煮汁を全量流し込むと私には味が濃すぎるので加減したが、好みに拠ろう。

本日の呆け-買い物、開け閉め、消し忘れ、なし。

本日の所感-『 「51Cのその後 - 山本理顕」51C家族を容れるハコの戦後と現在 から』を読んでいる。その起承転結の起が以下であろう。

《 その51Cができたことで何が変わったか。当時の社会状況に応じてできあがった51Cが、逆にその後の時代を誘導する非常に大きな役割を演じたのではないかと、社会学者の上野さんは思う。私も思う。》

ここで云う51Cとは35平米の2DK住宅で住宅公団などが1960年代に供給した初期の団地の間取りである。

起から、この2DK住宅の供給が核家族個人主義などと云う社会現象に及ぼした影響を論じている。

著者の山本理顕氏を

『 「ホームレスな生活 - 鷲田清一」感覚の幽[くら]い風景 から』で鷲田清一氏が山本理顕氏の文章を引用していたことで知った。当該引用部分については本稿の末尾に加えた。

青葉して団地しづかに老いにけり(角田大定)

願い事-叶えてください。消して下さい。

(参考文献)

「ホームレスな生活 - 鷲田清一」感覚の幽[くら]い風景 から

《「住宅」にこだわりつづけてきた建築家、山本理顕は、現代の家族住宅には、家族の擬態しかないという。「居間には一家団欒などという期待、ベッドルームには夫婦の愛情という期待、子供部屋には子供との正しい関係という期待」......。だれももはや核家族が社会の揺るぎないユニットだとは思っていないのに、住宅のほうはあいも変わらず「親愛な核家族」という幻想を前提に造られている。そう指摘する山本は、家族にとっての住まいというものをくりかえし設計するなかで、つくづく、「家族というものは寂しいものだと思った」と漏らしている。

家族というあまりにも小さい関係が、それでもその中に関係というようなものができあがってしまっていることが、そしてその関係が内側だけで閉じてしまっていることが、その関係が外に対して何の手がかりももっていないということが、そういうことが寂しいのだと思う。

要するに、今わたしたちが持っている家族という単位は、社会的な単位としてはあまりに小さ過ぎるようなのである。ひとつの単位としての役割を既に果たせないほど小さいのだと思う。それでも、この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、今の社会のシステムはできているように思う。今の社会のシステムというのは、家族という最小単位が自明であるという前提ででき上がっている。そして、この最小単位にあらゆる負担がかかるように、つまり社会の側のシステムを補強するように、さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備をこの最小単位のところで調整するようにできているのである。だから、家族が社会の最小単位としての役割を果たせなくなっているのだとしたら、それは、社会の側のシステムの不備を調整することがもはやできないということなのである。(「細胞都市」)

何度も念を押すかのように同じフレーズをくりかえすなかに、山本のやりきれない想いが強くただよう。そのやりきれなさを構造的に析出したいという、強い意志があらわれている文章である。

こうしてわたしたちは、はじめの問いかけに戻る。生命維持のためのもっとめベーシックないとなみを家族と協同でするところ、それを「住宅」と定義してよいのか?別の言い方をすれば、ある特定の場所になじむ、もしくは住まうというのは、ひとにとってどういういとなみなのか?そういう問いである。》