「郵便局の角で - 藤沢周平」文春文庫 小説の周辺 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200422082642j:plain


「郵便局の角で - 藤沢周平」文春文庫 小説の周辺 から
 
家内が郵便局に行くというので、ちょうどコーヒーを飲みたくなっていた私も、一緒に外に出ることにした。
「コーヒーをごちそうするよ」と私は言ったが、家内はさほどうれしそうな顔はしなかった。
家内は私ほどコーヒー好きではなく、また私と一緒に喫茶店に行くと、結局は飲み物を注文したりお金を払ったり、私がぼんやりしていれば砂糖まで入れなければならない。要するに雑用係にされるのが眼に見えているので、コーヒーを「ごちそうする」式の偽善的な言い回しにはもうあきあきしているという顔をするのである。
それに、人生がたのしくて仕方がない若夫婦ならともかく、おたがいの顔も見あきた初老の夫婦が、喫茶店で顔をつき合わせたところであまり話すこともないのである。おたがいに、「だいぶ白くなったな」などと相手の髪を眺めたりしながら、むっつりとお茶を飲むだけである。
そんなことならひとなど誘わずに一人で出かけたらよさそうなものだが、コーヒーひとつ飲むにも、ひとでも誘わなければはずみがつかないという年齢があるらしい。そして、その底にかすかにひとを頼る気分がある。すなわちこれが、老化現象というものなのだろう。以前はそうではなかった。外にコーヒーを飲みに出るということにも情熱を持ち、その時刻になるとさっさと家を出て、なじみの喫茶店の決まった席に、頼まれたような顔をして坐ったものである。そのころは家内などはじゃまっけなだけで、コーヒーに誘う気持などなかった。
そういう古き良き元気はつらつの時代は過ぎて、私はいま、混んでいるのかなかなか出て来ない家内を待って、郵便局の角に茫然とたっているのである。
郵便局の小さな建物は信号のある十字路の角地にあって、私はその前の、歩道の隅にある電柱のそばに立っている。信号が変わるたびに、私の前の横断歩道をひとが行ったり来たりした。中には信号待ちで立ちどまっている間に、私の顔をじっと見る人もいる。このオジイは、何の用があっていつまでもこんなところに立っているのかて訝[いぶか]しむ様子である。
そこで私は、車道の方から郵便局の横手の道の方に身体の向きを変えた。すると歯科のF医院が見えた。家が見えただけでなく、診察室と思われる部屋の窓がひらいていて、室内にひとが動くところまで見える。私はまた回れ右をした。
ほぼ一年ほど前に、私はF医院で虫歯を一本抜いてもらった。猛烈な痛みに堪えかねてF医院に駆けこみ、ぬいてもらったときはF先生を神かと思ったほどなのに、あとに義歯を入れるからしばらく通うようにという先生の言葉には従わなった。すっぽかして、行かなかったのである。喉もと過ぎれば熱さ忘れるで、痛みが消えてしまえば歯医者さんはそんなに喜んで通いたい場所ではない。
とはいうもののわれながらあまりに現金な話で、私はその現金さを恥じて以後F医院のそばを通るときはどうしてもうつむき加減になる。その診察室が正面に見えるので、そちらに顔をむけてはいられない。
回れ右をして、また横断歩道をわたるひとを眺めていると、自転車で来た少年が、ひょいとおじぎをして通って行った。隣家のY君である。子供も中学、高校生になると、家のそばで遊んでいるなどということがなくなるものだが、Y君を見たのも久しぶりで、いつの間にか背丈がのびているのにおどろく。
遠ざかるY君の背を見送っていると、今度はすぐそばで、止めてある自転車を歩道に引っぱり上げるのに苦労している女のひとがいるのに気づいた。郵便局の建物は歩道から一段低い土地に建っていて、自転車で来たひとは、前輪をその低くなっている地面に落とす恰好で車をとめる。いま自転車と格闘しているひとも何気なくそうしたらしかったが、いざ引き上げるときになって自転車が重くて引き上げられない様子である。五十前後の小柄なひとだった。見かねて自転車をひっぱり上げてやった。
何日か前に、こういうことがあった。たまたま家の近くのひとが混雑しているスーパーの前を歩いていると、すぐうしろでゴツンという音がして、つづいて火がつくように子供が泣き出した。振りむくと幼児が地面にひっくり返って泣きわめいているのである。
子供が泣き、母親らしい若い女性は片手で荷物を押さえ、片手に自転車をつかんだみま立ち往生している。それだけの状況と、その子供は自転車の荷台から落ちて、歩道に頭をぶつけたのではないかということを理解するまで、ちょっとの間があった。私はしばらく泣きわめく子供を眺めていたようである。
と思う間に、誰かが赤ん坊を抱き上げて母親に声をかけた。まわりには大勢の女のひとがいて、そのひとたちも私と一緒に一瞬状況を眺めたようだった。だが私も、その母親と赤ん坊のすぐそばにいたのである。それなのに、まったく手が出なかったのだ。
そのことが、歩き出したあとも私にショックを残した。反射神経が鈍くなったな、私は思ったが、それだけで片づかないこともわかっていた。たとえば感動的な小説は書けても、眼の前で歩道に落ちた子供を拾い上げられないようでは、人間として役立たずと私は思っていたのである。この種の過剰な自責ぶりというのも老化現象の一種かも知れないのだが、とにかくこの出来事で、私は自分の人間としての衰弱ぶりに気づかされて唖然てしたというぐあいだったのである。
自転車を引き出す女性に手を貸したのは、とっさにそのときのことを思い出したからだが、礼を言われて私は赤面した。意識したのでは猿芝居である。そそくさと定位置にもどると、やっと家内が出て来たところだった。