「超特急 - 吉田健一」中公文庫 汽車旅の酒 から

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「超特急 - 吉田健一」中公文庫 汽車旅の酒 から

どこかへ行く場合、そこに早く行ければ行ける程いい、とは限らないが、目的がただそこへ行くことだけにあるならば、確かにそこに着くまでの時間がなるべく短い方がいいので、理想は、そこに行きたいと思った瞬間にもうそこにいることであり、何[いず]れそのうちにそんなことになるかも知れない。今度の新幹線を走る列車は、空港までと空港からのバスに乗らなければならないことを勘定に入れれば、東京から大阪まで飛行機と大体同じ位の時間で客を運んで行くらしい。この新幹線の途方もない急行でなくても、現にもとの東海道線を往復している「こだま」は、東京か大阪に用事がある人間が大阪からか、東京からか、まだ日が高いうちに東京、或は大阪に着いて、用事を済ませて晩までに戻って来られる為に運転されている列車だそうだから、要するに、世の中には忙しい人間がいるものだということになる。
所で、こっちはこの「こだま」に乗ったことがないし、乗る気もなくて、今度の新幹線の「ひかり」にも少しも乗りたいとは思わない。日本人は貧乏だから(というのが既に眉唾ものではあるが)、自家用の飛行機や東京、大阪間の私設電話を持っているものが少ないので、それでせめて汽車に乗っている時間を短縮したいという多勢の望みを国鉄が実現しに掛っているということなのだろうか。併[しか]し東京と大阪の間を一日で往復しなければならない程忙しい生活というものがどうも満足に想像出来ない。例えば、電話するだけでは片付かない用事なので相手がいる所まで自分で出向いて行くというならば、その相手に会って恐しくせかせかと話を進めなければ、帰りの「こだま」に乗り遅れることになる。今度の「ひかり」ならばその心配はなくても、そうすると次には、用件を二つか三つ、恐しくせかせかと捌[さば]き、どうにか上りか下りの「ひかり」に間に合うという風なことになるのに違いなくて、その辺から何だか気持がげんなりして来る。
併しそういう忙しい思いをしている人達がいて悪いということはないので、それだから新幹線が出来て今よりももっと早い急行が走るようになるのはいいことである。そしてその恩恵は、そんなめまぐるしい生活をしていない人間にも及ぶ訳であって、「つばめ」より早い「こだま」が出来た上に、その「こだま」より早い「ひかり」が走り始めれば、旧東海道線の席を取るのがもっと楽になることは先ず確実である。それに、新幹線を行くのは「ひかり」だけではないから「ひかり」でなくてもいいから新幹線でどこかに行きたいものが多勢、そっちを走る列車に争って乗ることは更に確実で、そうすると、我々に馴染み深いもとの東海道線の列車はもっと空くのではないだろうか。
新幹線と言うと、皆何故か夢の超特急のことばかり考えるらしいが、新幹線が開通したことの本当の有難味はこの交通緩和の点にある筈である。もっと多勢のものが汽車に乗れるようになったからという、ただそれだけの理由で今よりももっと多勢のものが汽車き乗ることにならない限り、少しは汽車の旅行が昔の?を取り戻すことが期待される。
これは、用がないものは汽車に乗るなということではなくて、その逆である。どうしても東京から大阪まで二、三時間で行って用談をすませて又、二、三時間で戻って来なければならない人達の為だけの汽車の旅行ではないのであって、お盆に田舎の婆さんにお土産を買って帰る小僧さんも、金沢の造り酒屋さんの所に甑[こしき]倒しのお祝いに行く飲み助も汽車に乗り、そういうのはその孝行な小僧さんも、ゆっくり途中を楽んで行く早さの汽車に乗る権利がある。その場合は、目的はただ婆さんにお土産を届けることにあるのではないだろう。婆さんも待ってはいるだろうが、その息子だか、孫だかが段々自分の所に近づいて来るのを知って嬉しくなっているのであり、小僧さんの方ももう直ぐだと思いながら、途中の駅で弁当を買ったりしていい気持になることを望むのである。飲み助に就ては言うまでもない。光の速度などというのは学者が知ったことで酒とは関係がない。
ここで旅行というものに就ての一般論を試みるならば、旅行すること自体が或る程度まで目的でないのは旅行とは言えないので、何れもっと機械、器具が発達すれば、ただ用事を足すだけの場合は旅行しないですむようになるに違いない。昔は人と懇談するのに、その人がいる所まで行かなければならなかったというような按配になるのである。それだから、例えば、日本からヨーロッパまで行くのに北極廻りの飛行機に乗るのはつまらない話で、往復二日だけ余計に時間を取って南を廻った方が、サリ姿のインド人のスチュワーデスが見られるだけでも旅行している気分になれる。北極廻りでは海らしい海も見えない。又そういう訳だから、三つも四つもの会社の社長を兼ねている人間でもないのに、二、三時間の差を惜んで新幹線を泡を食って突っ走ることもないのであって、やはり汽車が米原を過ぎたらもう直ぐ京都だと思う位の、そういう早さで汽車には乗りたいものである。
碌に旅行したことがないものだから、旅情などという言葉を持ち出して、自分が生れる前の昔を恋しがったりすることになる。交通機関が発達すれば、旅行することが出来なくなるなどというのは嘘であって、昔の宿場に代るものが今日の鉄道の駅であることが解らないものは、自分の廻りを見廻す眼を持っていないのである(空港は港である)。今のうちは新幹線が嬉しくて途中の景色も眼に入らないし、飛行機に乗るというのでわくわくして空港が港であることにも気付かずにいるということもあるかも知れない。併し新幹線もやがては新しくなくなって第二の東海道線で通ることになるのであり、飛行機に乗るのが別に珍しいことでなくなった人間は既に沢山いる筈である。自分が乗っているものが珍しくてしようがない状態が続く間は勿論、旅行も何もあったものではない。併し飛行機が滑走路を一周してこれから離陸するという時に、可憐に足を揃えることを知っている人間も既にいることと思われる。
そうなると益々、新幹線、或は第二の東海道線はなにがなんでも何でも急いでいる人達の為の線で、それだって旅行でないこともないだろうが、旅行したくて、或は用事を兼ねて旅行も出来る人達は今の東海道線で行くということになりそうである。その東海道線の列車が新幹線のを真似て駅での停車時間を今の半分に短縮することで、東京から大阪まで今より四分半早く着くような不心得を企んでいるとは思えない。一体に、汽車の旅行の楽みは、停車と停車の間に流れる時間というものであるが、途中の駅で降りて、例えば、名古屋駅でお燗した酒を売っていることを発見するというようなことにもある。そういう天下泰平の楽みをこれからも繰り返したいから、新幹線が忙しい人の数だけの乗客を今の東海道線から減らしてくれるのを有難く思うのである。