3/3「第五章 「西寒川線[にしさむかわ]」・清水港[しみずこう]線・岡多[おかた]線・武豊[たけとよ]線・「赤坂[あかさか]線」・樽見[たるみ]線 - 宮脇俊三」河出文庫 時刻表2万キロ から

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3/3「第五章 「西寒川線[にしさむかわ]」・清水港[しみずこう]線・岡多[おかた]線・武豊[たけとよ]線・「赤坂[あかさか]線」・樽見[たるみ]線 - 宮脇俊三河出文庫 時刻表2万キロ から

岡崎に戻り、東海道本線に二〇分ほど乗って大府[おおぶ]下車、武豊[たけとよ]線で武豊までの一九・三キロを国電型座席のディーゼルカーで往復し、大府から快速電車で大垣に着いたのは16時30分であった。
大垣からは、まず美濃赤坂までの五・〇キロに乗る。この線は東海道本線の枝線で、地元では「美濃赤坂線」あるいは「赤坂線」と呼んでいる。運転本数は本線からの乗り入れ列車など一日八往復あるが、昼間は土曜日のみ運転の一本を除いてまったくないので、スケジュールに組みこむのがむずかしかった。
今回私が乗るのは16時55分発で、朝の8時17分発のつぎがこの電車なのである。
発車して、関ヶ原の方へ向かって東海道本線の上を4分も走り、ようやく分岐して自分の線に入ったとたんが荒尾[あらお]で、すでに三・四キロ、終点美濃赤坂まであと一・六キロしかない。五・〇キロという営業キロも短いが、実質は一・七キロぐらいの線である。
赤坂は、背後に全山石灰石の金生山[きんしようざん]があり、大理石の町として知られるが、現在はイタリアから輸入した原石の加工が主になっているという。構内には無蓋貨車が多い。
古い駅舎の終着駅で、なかなか風情のある美濃赤坂をあとにして、大垣に引き返し、今日の最後の樽見線二四・〇キロに乗る。この線は二時間に一本ぐらいの割合で運転されている。
大垣発17時26分美濃神海[こうみ]行の二両のディーゼルカーは、樽見線専用ホームから美濃赤坂行とは反対に岐阜の方に向かって発車する。これまた四分ほど東海道本線に沿うが、こんどははじめから自分の線路の上を走り、本線との分離点にある無人駅東大垣にまず停車する。本線には駅はなく、電化複線の堂々たる線路が、支線の小駅など眼中にないかのように一直線に貫いている。こちらはいかにもローカル線らしく、田園を背景にしてぽつんと停まる。
揖斐川を渡り、岐阜の金華山の突?とした山峰を眺めながら濃尾平野の北辺を北へ進む。ビニールハウスの野菜づくりがひときわ盛んな地帯で、蒲鉾の並んだなかを行くようである。大垣から三〇分の美濃本巣[もとす]で上り列車と交換すると、まもなく平野は尽きて山間に入り、渓谷沿いになる。川は揖斐川の大きな支流根尾[ねお]川で、これを遡ってゆくと明治二四年の濃尾地震でできた根尾谷断層がある。断層から二キロばかり奥が根尾村役場のある樽見で、樽見線の名はそこまで鉄道を敷こうとして名づけられたのであろう。しかし昭和三三年に美濃神海まで開通して以後は進捗していない。
18時08分、終点の無人駅美濃神海[こうみ]に着く。ここまで残った数人の客が散ってしまうと、私一人だけになった。折り返しの発車は18時36分で、すこし時間がある。駅前には雑貨店が一軒あるだけで人家もまばらなところだから、することがない。ホームの上では運転士と車掌が手持ち無沙汰なのか、宮殿の衛兵のように交互に行ったり来たりしている。私は岐阜までの切符をつくってくれるよう車掌に頼んで、車内に戻った。大垣でなく岐阜までと言ったのは、大垣で途中下車して「美濃神海」入鋏された切符を手中に収めたいためである。ある旅行家に「もうじき二万キロになりますよ」と自慢して「証拠はあるの?」と反問されていらい、私は切符など蒐めるようになってしまったのである。
帰りは、私とあと一人を乗せて薄暮の山間駅を発車した。二つ目の木知原[こちはら]を過ぎると根尾川の谷が狭くなる。突然、対岸の斜面の樹間から赤一両・緑一両の小じんまりした二両連結が現われ、こっちと平行して走りだした。私は狐火でも見たようにはっとしたが、これは名古屋鉄道谷汲[たにくみ]線に紛れもない。暗緑色に翳った樹林に隠顕する二両の配色が絶妙で、名鉄というと赤いパノラマカーを思いうかべてしまうが、こんな電車を山間に走らせていたのかと感心した。国鉄ばかり乗っている私でも乗りたくなる電車であった。
大垣、名古屋で乗換え、東京には22時32分に着いた。五線区を消化したのだから、なかなか充実した日帰り行であった。