「生命倫理学への違和感(一部抜き書き) - 中島義道」人生、しょせん気晴らし から

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(一) 生命倫理学は「死」をめぐって活発な議論を展開するが、「〈死ぬ〉とはいかなることか」という問いには立ち入らない。

尊厳死」や「安楽死」や「ターミナルケア」あるいは「脳死は人の死か」という問題など、生命倫理学は「死」を中核的なテーマにしていると言っていいが、(不思議なことに)「〈死ぬ〉とはいかなることか」という最も基本的なテーマには介入しない。現代日本では、アウシュヴィッツや広島について、九・一一や年間三万人に及ぶ自殺について、幼児誘拐殺人事件や親殺しについて、ジャーナリズムは太鼓を叩いて騒ぎたてているが、「〈死ぬ〉とはいかなることか」が正面から取り上げられることはない。この根本的問いを避け続けながら、目に触れる限りの場所で、人々は大量の死、残酷な死、不可解な死......の議論に終始している。これは見方によっては奇異なことであり、別の見方によっては自然なことである。では、「〈死ぬ〉とはいかなることか」はどこで議論されるべきなのか。死んだらどうなるかわからないのに、なぜわれわれは「死ぬこと」を恐れるのか、いや、もっと根本的な問いがある。なぜ、「生きていること」のほうが「死ぬこと」より「よい」のか。こうした問いに正面から取り組むのは、(倫理学を含む)哲学をおいて他にはないと思う。
すべての死に関する議論に「〈死ぬ〉とはいかなることか」という問いを取り入れるべきだと提案しているのではない。生命倫理学が「倫理学」と称しながら、そこに立ち入らないことがきわめておかしいと思うのである。
生命倫理学のどの教科書にも、東海大学安楽死事件の判決(一九九五年三月)が出ている。それは、わが国における安楽死の基準を設定した画期的なものであるが、その中に「耐え難い肉体的苦痛」という要件がある。裁判官は職業意識に基づきさまざまな社会的マイナス効果を考量して判断する。安楽死の条件を緩めると、いわゆる「滑りやすい坂(slippery slope)」となって、安楽死の名の下に自他の生命を奪う傾向を促進してしまうという議論はわかる。だが、それは裁判官の見地である。生命倫理学者は、倫理学者という固有の観点からではなく、裁判官や政治家や病院長の意見を追認するだけでいいのであろうか、あるいはこれらをまとめ整理するだけでいいとでも言うのであろうか。
精神的苦痛から逃れたいために死にたい、という人間の反応は自然だとすら言える。人間はただ「生きていたくない」という理由だけで死ぬことさえある。その人が死んでも誰も悲しまない死、いや周りの者がこぞって安堵のため息をつく死さえある。それにもかかわらず、ひとはなぜ自殺してはならないのか、なぜ生きることを強要されねばならないのか。この問いに倫理学者こそ真剣に答えるべきであるのに、せめて真剣に答えを求めるべきであるのに、大方の生命倫理学者はこの努力すらしない。倫理学は、「ここから」始まるのに、「ここで」終えてしまう。とすれば、生命倫理学者は法律家や社会学者や政治学者とどこが違うのであろう。
私は「ターミナルケア」について、いつも学生にどう教えていいのかわからなくなる。私の妻の父も姉も、末期癌の際にカトリック系のホスピスに入って死んだのであるが、彼らはクリスチャンではなかったが、病室からは教会の尖塔が見え、賛美歌が聞こえ、廊下を修道女たちが行き来し......という死後の生命を確信する雰囲気に包まれていたからこそ、慰められたのである。死後の生命をまったく否定した(疑問に付した)上での尊厳死とはどういうものか私にはわからない。ターミナルケアの中心課題は患者の苦痛を和らげることであるが、苦痛には精神的苦痛も含まれるとすれば(いや、それは果てしなく大きいものである)、精神的苦痛に苦しむ患者をいかにケアしたらいいか私にはわからない。彼らに安楽死を認めてもいいのでは、と思ってしまうのである。