1/2「不良老人の色気 ー 嵐山光三郎」退歩的文化人のススメ から

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1/2「不良老人の色気 ー 嵐山光三郎」退歩的文化人のススメ から

中央公論新社より『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』が刊行された。千萬子は谷崎松子夫人の連れ子清治の妻で、谷崎の義理の娘にあたる。千萬子は谷崎晩年の小説『瘋癲老人日記』のヒロイン颯子のモデルとなった女性である。
昭和三十七年(谷崎七十六歳)千萬子宛の手紙に、「あのアナタの足型の紙は私が戴いておきたいので御返送下さい。新しく書いて下すっても結構です」とあり、翌三十八年(七十七歳)の手紙には「あなたの仏足石をいただくことが出来ましたことは生涯忘れられない歓喜であります」とまで書いている。
松子夫人が生存中に、こういったエッチな往復書簡が発表されれば、けっこう面倒な事態になっていたと思われる。
ここで谷崎をとりあげるのは、谷崎は下り坂を書く達人であり、肉体が衰えていく後半生をなだめつつ、うまくコントロールしていった達人だからだ。
谷崎は七十九歳で没するが、代表作『細雪』が中央公論社より刊行されたのが六十歳である。デビュー作は二十四歳で「新思潮」に発表した小説『刺青』で、これが荷風に激賞され一躍人気作家となった。谷崎は、書く内容がワイセツ文学とされ、発禁処分をくりかえし、人生求道的作品を書く志賀直哉に比して、一段下とみなされていた。『細雪』ですら、昭和十八年(五十七歳)から「中央公論」に連載され、途中で掲載禁止となった。小説『鍵』を発表したのは昭和三十一年(七十歳)である。
晩年の旺盛な執筆は驚嘆するばかりだがカラダが丈夫だったわけではない。老人にさしかかった谷崎は、自分の病気に気を配りつつ、カラダをだましだまし書きつづけた。『細雪』を刊行してからは高血圧に悩み、執筆をさしひかえるようになった。体力強靭で、ギラギラした人に見えるが実情は臆病なほど用心深い人で、書く内容も『刺青』にみられるような才気煥発さに替わって衰えていく肉体をみつめている。
七十歳で書いた小説『鍵』は、五十六歳になる大学教授の夫が、四十五歳の妻郁子との性生活を十分に享受したいという願いを日記に書き、日記を入れた机の鍵をわざと落とす。夫の日記はカタカナ書き、妻はひらがな書きで、互いに読まれることを想定した性愛夢日記である。若いとき、この小説を読んだ私は、「なんでこんな面倒な手つづきをするのか」が理解できず、ただのエロ小説だと思っていた。それが、年をとってから読むと異常に興奮して、妻に「私らもマネしようか」と申し出て、「なにバカ言ってんのよ」とひっぱたかれた。最初から妄想日記とバレてしまっては、谷崎の域に達するにほど遠い。『鍵』が発表されたときは、国会の法務委員会で問題になって、世評は「ワイセツか芸術か」で沸きかえり、そのぶん小説は売れた。発禁をくりかえしてきた谷崎の作戦勝ちといったところ。『鍵』が評判になった翌年(七十二歳)、虎の門の福田家で発作をおこし、右手が使えなくなり、以後、口述筆記に頼らざるを得なくなる。『夢の浮橋』はそんななかでなった最初の作品だった。谷崎をふるいたたせたのは「老いの意識」で、衰弱が逆に原動力となっていく。こんな芸当は、気力体力が充実している若いときにはできるものではない。
人生の登り坂にも山や谷はあるが、下り坂にも山や谷があって、なだらかなアスファルト道路をすーっと降りていくわけにはいかない。自転車で砂利だらけのデコボコ山道を降りていくようなもので、登る技術よりも下り坂のほうが難しい。体力をなだめながら、それでめ楽しみながら下っていかなければいけない。  七十四歳の谷崎は狭心症の発作をおこし、東大上田内科に二カ月入院した。『瘋癲老人日記』は、その病みあがりのなかで口述筆記された。小説の内容はフーテン老人卯木督助の日記という形式で、「フーテンの寅さん」ならぬ「フーテンの督さん」の誕生となった。老人のやりたい放題とおかしさがこと細かに書かれている。