「九十一翁の呟き(抜書) - 南條範夫」文春文庫 01年版ベスト・エッセイ集 から

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「九十一翁の呟き(抜書) - 南條範夫」文春文庫 01年版ベスト・エッセイ集 から


九十年以上も生きてきたのだから、もういつ死んでもいいと思う。負惜しみではない。本当のところもう心残りするほどのものは無くなってしまっているのだ。
この二、三年の間に身辺の整理もほぼ終った。各種の手記、書簡類など凡て始末して了[しま]ったし、思い出の深い写真なども皆焼却してしまった。こんなもの凡て、この自分にとっては懐かしく強烈な、或いは大切な憶い出をひそめたものであっても、他の人々には何のこともないただの紙屑に過ぎないだろう。
書画骨董などには大した趣味を持たない私の身辺に残った主なものは、四万冊近くの書籍だけだったが、これも大体売却し終って、僅か二千冊位残っているだけ、こんなものは私の死後、どう処分されてもよい。
いつ死んでも誰にも迷惑のかからないようにしてあるつもりだし、後に残った家族のものが特に困ることのないように一応の配慮もしてあるし、あとはどんな死に方をするかということだけだ。
高校時代の友人T・Kが数年前に死んだが、その死に方は実に羨ましいものだった。夜遅く、二階のベッドに横たわって書物を読んでいると、細君がお休みを言いに来て、階下に降りていった。翌朝、いつもの時刻にKが降りて行かなかったので、細君が二階に上ってみると、Kは右手に読んでいた書物を開いたまま持った形で、安らかに死んでいた。前夜おやすみと応じてくれた時そのままの穏やかな表情だったと言う。
これは理想的な死に方だ。できれば私もそんな風にして死にたい。
死ぬこと自体にはもう何の恐怖もないが、長い間病臥[びようが]したり、死際に肉体的苦痛を訴えつづけるような死に方は、考えただけでもゾッとする。楽に死にたい - それだけが今の願いだ。
もうどうせ長くないと医学的に判断され、自分でもそう覚悟した時、安楽死することを認めてもらえないものだろうか。ただ無闇に生命の継続だけを目的としているような現在の医療方法は、どうにも納得できない。殆ど生の自覚を失っている病人を薬や注射でむやみに生存させている状況をよく見せられるが、そうした場合、ただ残酷なという印象しか持ち得ない。
本人が希望した時は、医学的に安楽死させることを認める法律が何故できないのか私には解らない。死際の肉体的苦痛くらい嫌なものはないだろう。
私は来世などというものは全く信じていない。死んでしまえば塵芥[じんかい]となってしまうのだ。そしてそれで良いではないか - そう思っている。