「職人仕事 - 花森安治」岩波書店 エッセイの贈りもの から

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「職人仕事 - 花森安治岩波書店 エッセイの贈りもの から

職人仕事というと、なにか一段ひくいもののようにケイベツする風があるのは、たぶん古いサムライのしつけなり考え方なりが、やはりぼくらのどこかに影をひいて、それがこんなところにも、ひょっこり頭を出しているためかもしれない。
雑誌を編集するときでも、プランをきめたり、執筆者と会ったりするのは、なにか立派な、やり甲斐のある仕事で、活字の大きさをきめたり、割りつけたりする仕事は、職人仕事で、くだらぬときめてかかっているような風がみえる。
どんないい構想なり主張なり思想なりがアタマの中にあっても、それを表現する技術がなければ、あってもまずかったら、これは意味のない話である。言葉も文字もしらない詩人というもの、そんなバカげたことは考えられないのだ。言葉や文字を粗末にする、それで詩が作れるわけはない。
それなのに、雑誌の場合は、内容さえ立派なら、カタチなど、どうだっていい、といったふうにみえるのが、ふしぎである。まるで義理か厄介か、でなければカタチだけのサル真似で活字を指定し、見出しをおき、それで雑誌でございます、と店先におっぽり出している。
雑誌というのは、ただ原稿を綴り合せたものとはちがい筈なのだろう。雑誌の場合紙、活字、整版、インキ、配列、そういったものは、詩でいえば、言葉なり文字にあたる同じ内容でも、それによってよくもなり悪くもなる。そこに神経が通っていないで、いい雑誌を作ったとはいえないのである。
活字ひとつにしても、同じ明朝体といいながら、明治時代の素朴な味もあれば、近頃のイヤ味な細鋳ポイント活字もある(あれは言葉でいうとザマス調のイヤらしさだが)、そうした感覚さえ、わかろうとしないし、わかるのをむしろケイベツするというのは、なぜだろう。雑誌にも町人風サムライ風があるとすると、そのサムライ風の雑誌ほど、こうしたことを職人仕事とケイベツしているようにみえるのは全く奇妙なことである。