3/3「活字の中の落語家たち - 江國滋」旺文社文庫 落語美学 から

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3/3「活字の中の落語家たち - 江國滋旺文社文庫 落語美学 から

文楽の落語は、小説の味である。話の筋もさることながら、登場人物をそれぞれに生かさないと気がすまない。この男はこんな奴でございます。この女はこんな女でございますと、話の端々で性格を描写しながら筋を運ぶ処に、この人の落語の立派さ、端正さがある。(略)人物描写などというと角が立つが、話の端々で、文楽は巧みに人間を彫り上げて行く。一朝一夕に出来る芸ではない」(永井竜男『高座の甘辛』)
と、これは、いまの桂文楽についてのキメのこまかい観察である。
たしかに、すぐれた演者のすぐれた噺を聴くと、軽妙な中間小説であったり、恋愛小説であったり、私小説であったりする。時に立派な純文学でさえある。桂文楽は、磨きあげた芸をもつ、もっとも安定した当代の名手に違いない。だが、その文楽でさえ円喬に比べたら - と、小島先生は更にきびしい論を展開する。
「聞いて楽しもうと思っても、講釈は伯竜の死と共に滅びたようなものだし、落語では文楽一人きりだ。その文楽でさえ、私の知っている名人、じょうずに比べれば、間口は狭いし、話の数は少ないし、うまさの点から言ったら、円喬、円右、円左、小さんを一流としたら何流ぐらいだろう。これは文楽の悪口を言っているのではない」(『場末風流』)
桂三木助が、いつぞやしみじみとした口調でこんなことを言った。
「ほんとに小島先生の見方が正しいのかどうか......まア、私たちの勉強がたりないので、ああいわれても返す言葉がありません。小島先生のめがね違いだったことを証明するほどうまくなりたいもんです」
その三木助もまた、われらの心の中に生きる彼岸の人になってしまった。
NHK放送文化賞を得たる桂三木助

このところいいことづくめ桜草

三木助追悼

敷き松葉雨を交へし雪となり

(久保田万太郎句集)

三木助が死んでしばらくして、小島先生は、「噺によってはあの人も名人といっていいかもしれない」といわれるようになった。
- 諸大家の心にこれだけの感動を与えるのが芸というものである。その芸に、真剣にとりくむ芸人の姿は美しい。
「芸人、職人をいやしめる前に、少くとも芸術家や文学者は、この概念が正しいか正しくないかについて、考えてみる必要があるように私は考える。(略)私は、今日あるがままの浪花節、講談、あるいは落語を、そのままに芸術だとみとめるわけではないが、これまでいたずらに軽蔑されて来たそうした民衆演芸の中から、今日以後の芸術家や文学者がうけつがねばならぬものを、もう一度さぐり出す必要があることだけは主張したいと思う。芸人、職人の完成した世界は、かならずしも低いものおとったものばかりでなく、逆に非常に完璧な芸術の世界が結晶されている場合さえあるのである」(田宮虎彦『文学問答』)
いかなる時でも誠実で物静かな田宮先生の発言である。ひかえ目な言葉ではあるが、芸術家のきびしい鑑識眼と、いいものをいいと言い切る勇気とを内蔵した味わうべきエッセイだと思う。