「下戸の屁理屈 - 井上ひさし」中公文庫 酒中日記 から

f:id:nprtheeconomistworld:20201103082906j:plain

 

「下戸の屁理屈 - 井上ひさし」中公文庫 酒中日記 から

酒が嫌いなら嫌い、飲めないなら飲めないでいいものを、何事にも下手な小理屈やら屁理屈をこねないでは済まぬ悪癖があって、そこでまたひと理屈こねあげると、第一に、身に染みこんだ貧乏性が、酒から私を遠ざけているようだ。
いくら貧乏性の屁理屈屋であっても、酒を体内に流し込めば人並みに愉快になる。じつはこの愉快が怖い。この愉快な気分、爽快な心持に足を取られ心も奪[と]られ、そのうちに酒が好きになり、やがて酒なしでは日が暮れず夜も明けず、ついにはアルコールなしでは生きられぬ程になったらどうしようかと、愉快な気分になった途端ににそう考え出し、不安になってくるのである。貧乏性といえば聞こえはいいが、じつは臆病なのだろう。
第二に、私は酒飲みが怖い。
父親が早死にしたために、まったく酒の匂いのない環境で育ったのだが、中学生になったとき、わが家に居ついた男(正確には義父というべきだが)、これが毎度おなじみの地方廻りの浪曲師で、べらぼうな酒飲みだった。素面[しらふ]の時は借りてきた猫どころか、その猫の前の鼠より大人しく、居るか居ないかわからぬ程で、まるで床の間の置物より手がかからず、私たちにまで敬語を使うぐらいの弱気な人だったが、これが黄昏時になり一滴酒が入ると、がらりと人が変わり、大言壮語(たいてい、ちかぢかきっと中央浪曲界の新進花形になってみせる、といった類の大言に、おれの実力はこんな東北の山の中で朽ち果てるほど小さくはない、といった類の壮語)、乱暴狼藉(たいてい、私たち殴る蹴るといった類の乱暴に、母親に挑みかかるといった類の狼藉)、放尿反吐[へど](たいてい、小便といった類の放尿に、するめに白菜といった類の反吐)、高歌放吟(たいてい、猥歌の類を高歌し、お得意の浪曲を放吟)した。
酒にはこんなにも力があるのか、としたらその魔力は恐ろしい、人格一変どころか下手をすれば天変地異も起りかねぬ、敬して遠ざけるものはまず酒飲み、次に学校の先生、それから近所の餓鬼大将と、固く固く信じ込んだのが今でも尾を曳いて、酒飲みうじゃうじゃとぐろを巻く酒場へ出向くなど、蛙が蛇の穴へ入るが如き、あるいは豚が自ら屠殺場へ行こうとするが如き、更にはまたこそ泥が交番へ忍び込むが如きと同じ無謀な心持がして、躰がすくむのである。
加えて、新劇芝居の世界には酒豪が多く、稽古場では人見知りして恥ずかしそうな役者が、近くの縄のれんで一口飲むや否や、己れの上手下手は棚に上げこっちの芝居はこき下ろすやら、怒鳴るやら、胸倉股倉掴んでくるやらで、そのたびに戸惑い、しまいには辟易してしまう。
もうひとつ、学生時代、帰省する度に母の屋台の燗番を勤めたが、その土地が漁港であったせいか、おしなべて客の気が荒く、夜が更けて看板近くになると、ひとつやふたつ必ずといってよいぐらい、屋台をゆるがす口論いざこざ大喧嘩が始まり、止めに入れば殴られる、放っておけば屋台を引っくり返されるで、閉口した。そんなわけで酒飲みが怖くて仕方がない。
いずれの場合も、酒を注ぐ側に廻るからいけないと考えつき、去年の九月だったか、「道元の冒険」という拙作芝居の千秋楽に、飲む側に廻って、酒をがぶ飲みしたところ、たちまち大愉快の気分になり、劇団の人たちに片っぱしから号論を吹っかけ、とうとう全員の前で「本日をもって劇団をやめさせてもらう」と宣言し、大威張りで家へ帰った。翌日、素面にもどり、事情を聞いて仰天し、詫びを入れて元の鞘ぬ戻ったが、これは情けない上にだらしがなかった。
また、初めて酒を飲んだときの、初体験の記憶がよろしくない。それは高校一年の時で、孤児院の聖堂倉庫からブドー酒をくすねて飲んだのだが、これがただのブドー酒ではなかった。毎朝のミサに使われるもので、ミサという聖なる式によって聖変化し、十字架上の基督の流したまいし血と同じになるというたいした代物だった。たとえば、最初の煙草の隠れ喫[の]みに、小学校の奉安殿中に安置される菊の御紋章入りの御下賜の煙草をくすねてふかしたと同じほどの罰当りの所業で、酔っぱらって孤児院の廊下をふらふらしているところを見つかってしまい、かなり小っぴどく叱られた。一度で懲りず、三年間に数度、ブドー酒をくすね、その度に見つかり、決まったように叱られているうちに、犬の条件反射が人間にもあて嵌まるかどうか知らないが、酒をのむ→見つかる→天罰くだる、と条件付けられてしまい、今でも酒を口に含むたびに、死後の地獄や煉獄の苦しみに思いは行く。
出っ歯である処も酒飲みには向かぬと思われる。酔うとただただ笑い上戸、にやつき上戸になる癖があり、いつも、前歯と歯ぐきを露呈することになる。それはまだよいとして、それ以上酔うと、前にばったり倒れて寝入ってしまうのだが、そのとき、地面や三和土[たたき]を前歯で打つ危険がある。
そんなこと信じられない、て仰言[おつしや]る方があれば、それは酔うためにこの世に生れてきた幸運な人というべきで、ばったり倒れるとき、どういうものか奇態に前歯を打つことが多いのだ。年に一回はそれをやり、前歯が四、五日、妙に疼[うず]く。そのことへのおそれが、また、酒から身を遠ざける一因となっているように思われる。
したがって、酒を飲もうと決心するまでには大変な手続きが要る。アルコール中毒になっても仕方がないという決心、酒癖の悪い人にからまれてひとつふたつ殴られても仕方がないという決心、一旦、酔ったら何を放言し、何を仕出かしても仕方がない、それは身から出た錆故、当然なから自分で始末しようという決心、前歯を折るようなことがあっても仕方がないという決心、決心ばかりをいくつも重ねて、ようやくのことで盃をとり、コップを握る。
「それなら家で飲めば如何[いかが]?」
という声がどこからか上りそうだ。「家なら、怖い酒飲みも居ず、前歯打っても相手が畳ならば大事はあるまいし、どんな法螺を吹こうと聞く人もおるまい」
ところがじつはそうではない。家にも怖い酒飲みがいるのだ。彼奴は三日で角瓶二つをぺろりという豪の者で、普段でもよく喋べるのが、酒が入ると、酒が舌の油と化けるのかどうか、こわれたテープレコーダーの如く喋べりまくる。それが誰かは機密に属するので、これ以上は書かぬが、耳栓でもせぬことには、ちょっと相手が勤めかねる。かといって耳栓をすれば、侮辱だわ、と詰めよられるは必定で、彼奴からなるべく酒気を遠ざけるためにも、家では酒のサの字もだしてはならない。かくの如く、四方八方、支障だらけで、どうにも酒とは縁が薄い。ウイスキー入りのボンボンくわえているのがもっとも身丈に合っているようである。