「中庸のススメ - 土屋賢二」幸・不幸の分かれ道 から

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「中庸のススメ - 土屋賢二」幸・不幸の分かれ道 から

古代ギリシアの哲学者はこういうことを徹底して、考えました。アリストテレスは、尊敬される立派な人間の性質を分析して、「中庸」かどうかが立派などうかを決めると主張しました。中庸というのは「中間」、「適度」ということです。たとえば、恐怖の感情が過度になると臆病になりますが、恐怖の感情が不足していると無謀になってしまいます。恐怖の感情がまったくなかったら、高いところも平気で歩けますし、青酸カリも平気で飲めますが、そういう無駄に死ぬような人は尊敬されません。過度でも不足でもなく、ちょうどいいくらいの恐怖の感情をもっている人が勇敢だとして尊敬されるんだとアリストテレスは言っています。
節制も中庸の一種です。欲望が強すぎて、欲望の言いなりになる人は尊敬されないし、欲望がまったくない人も尊敬されない。まったく欲がなかったら、食べ物も食べないでしょうからね。だから、ある程度の欲はもっていなくてはいけない。必要な欲求を必要な程度にもっているということが節制です。節制といっても、完全に欲望がないということではなくて、適度な欲をもっているということなんです。
気前がいいというのも中庸の一種です。お金に対する欲望が強すぎるとケチになります。金銭欲がまったくなければ、すぐに破産してしまう。気前のいい人は、適度の金銭欲をもつ人です。親切というのも同じです。自分を他人より大事にする欲望が強すぎると利己的になります。その欲望が足りないと、自分の財産や健康から命まで他人のために簡単に失ってしまう。その中間、過度でも不足でもない、自分を大切にする適度の欲望をもっている人が親切な人です。
このように、欲望とか、恐怖や喜怒哀楽といった感情を適度にもつことが、人間が立派であるための条件だとアリストテレスは分析しました。ところが、中庸というか適度というのを達成することは難しい。両極端なら目指しやすいんですけど、中庸、中間といった、中途半端な状態は非常に目指しにくいんです。何よりも、感情や欲望をコントロールすることはほとんど不可能に思えます。ギリシア人も、それが簡単なことではないと自覚していました。ではどうすれば中庸を達成できるんでしょうか 

アリストテレスは、子どものころから訓練する必要があると主張しました。子どものころから長い時間をかけないと、欲望や感情を制御するようにはなるないと言うんです。ギリシア時代にはしょっちゅう戦争をしていたので、恐怖心を少しずつ経験させて、それを克服する練習をさせなくてはならない。そうやって感情も恐怖も飼いならさなくてはならないと考えたんです。
現代では、感情や欲望は制御不可能だと思われていますから、「ぼくは臆病たから、そんなことはできません」と言ったりします。ギリシアと違って、臆病か勇敢かははじめから決まっていると考えています。でもペットでさえ、我慢を覚えさせるとか、感情を抑える訓練をさせたりしてますからね。
人間は、ちょっとしたことですごく立派にもなるし、どこまでも悪くなる存在です。自分の妻とか夫とかは、どうやっても変わらないと思うでしょうけどね。でも人間は本気でよくらろうと思ったらどこまでもよくなる余地があるんです。
ギリシア人は、人間として生まれるということはどういうことなのか、ということを強く意識した民族です。神でもなく動物でもなく人間として生まれてきたのはどういうことなのかを常に意識して、人間は神と動物の中間にあって、どっちにも近づくことができる存在だと考えていました。
人間の性格も、感情や欲望をどの程度制御するかによって決まります。自分勝手な人、勇気がある人、親切な人、そういう人間の性格も初めから固定的に決まっているわけではありません。性格は、そのときどきの行動の積み重ねで決まりますが、そのときどきの行動は、日ごろの訓練によって変えられます。だからこそ自分の努力や教育によって性格はかなり変化すると思うんです。長い時間がかかりますが、それだけ人間は変わる余地がある。場合によっては、とてつもなく善い人間にも、とてつもなく悪い人間にもなる可能性があるんです。
今でこそ自分はろくでもない人間だけど、本当はものすごく立派な人間にもなれるんだ、と思えば希望がわいてきませんか?ただ、そう考えると、希望どころか、よけい情けない気持ちになるのはぼくだけでしょうか。