2/2「喧嘩人 - 佐藤愛子」日本の名随筆60 愚 から

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2/2「喧嘩人 - 佐藤愛子」日本の名随筆60 愚 から

こうして書いて来ると、私および私の一家はあまり上等の人間の集りでないことがよくわかるのである。
世に紳士淑女という言葉があるが、それに対して父は自分のことを「野蛮人」といっていた。野蛮人とは己を抑制統禦[とうぎよ]出来ない人間のことである。しかし、ほんものの野蛮人は感情の抑制や自己規制を学んでいないために出来ないだけであるが、我が一家はそれを教えられ学んでいるのに出来ないという悲しむべき一家なのである。
「わかっているんだが、つい......」
アルコール中毒者と同じようなことをいう。時には、
「わかっているが、しかし、人は負けると知りつつも戦わねばならぬ時がある」
などとバイロンの言葉を借りて来て、己を正当化することもある。
「私がここで喧嘩しなければ、誰がするのです......」
などというとき、ジャンダークにでもなったような気分になる。おそらく我が一家は気の小さな弱虫揃いで、そのくせ自己顕示欲だけは人一倍強いという血統なのであろう。喧嘩っ早い人間、喧嘩好きというやつは、多かれ少なかれそういう気質の持主なのではないだろうか。
喧嘩をしない人間というのはおそらく、立派な人なのであろう。しかしそういう立派な人は、私は何となく怖い。中には臆病ゆえに喧嘩をしないという人もいるが、修養の力でいつもにこにこ、誰とも仲よくなどという人にはあまり近づきたくないのである。
喧嘩というものは相手が受けて立たなければ成り立たぬものである。いくら喧嘩をしかけても、相手が感じなければ喧嘩にならぬ。感じていても大人物であれば軽率に喧嘩などせぬであろう。また大人物でなくても臆病者であったり、平和主義者、ことなかれ主義であっても成り立たぬ。喧嘩愛好家(といういい方もへんなものだが)が困るのはこういう人間である。五年前に私が別れた亭主というのがこのテの人間であった。大人物なのか鈍感なのか、そのへんの区別がよくわからぬままに別れることになったが、何をいっても何をけしかけても、喧嘩に乗って来なかった。
ある時、彼は三日二晩行方不明になった。何をしていたかといえばマージャンをしていたのである。委[くわ]しい事情ははぶくが、とにかく私は怒り狂った。そして三日目の夜、ヒョコヒョコと帰って来た靴音を聞くや、バケツに風呂の湯を汲んで彼の靴音が近づくのを待ち受けていた。靴音が玄関の前で止った。間髪を入れず私はドアをあけ(玄関の中で水をぶっかけたらあとの掃除がたいへんなので)ザブンとばかりに正面から水をぶっかけた。とたんに彼は何といったとお思いか。
「何だよう!どうしたというんだ」
と間ぬけ声。
「どうしたもこうしたもないわよっ!」
私は叫んで、傍の階段をタ、タ、タ、と駈け上った。彼が一躍、攻勢に出ると思ったからである。ところが彼はゴボゴボと靴を脱ぎ(何しろ靴の中まで水浸しなので)
「いやはや、いやはや」
といいながら上へ上って来たのである。怖るべきことに彼は怒らなかった。怒らぬということは喧嘩を受けて立たなかったということである。
私は罵詈罵倒の限りを尽くしてわめいた。それでも彼は怒らない。
「いやはや、まいった、まいった」
と降参のふりをしているだけである。世の人は彼を大人物だといって褒めそやした。しかしその翌年、この大人物は事業に失敗して破産してしまったのである。
喧嘩をしないということは、人間修業の問題ではなくエネルギーの問題ではないかと私は思う。
「女房ひとり、満足させられないような男が、どうして事業がやれるの!」
と憤っていた奥さんがいる。その人のご主人は事業不振のため性のエネルギー著しく衰えて、奥さんは欲求不満に悶々としながら、倒産の憂目を見たのである。丁度そのとき、時を同じゅうして我が家も倒産したが私の方は、
「夫婦喧嘩も満足に出来ないような男が、どうして事業がやれるの!」
と叫んだのであった。夫婦喧嘩も性行為も、挑まれればいつても受けて立つべきものである。私はそう思う。それが夫婦間のエチケットである。夫婦円満の秘訣はそこにあるのである。