「五十五歳 - 柴田錬三郎」柴田錬三郎選集18随筆エッセイ集 から

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「五十五歳 - 柴田錬三郎柴田錬三郎選集18随筆エッセイ集 から

-おれは、なんのために、生きているのか?
二十歳の青年の懊悩ではない。五十五歳の男の脳裡につきまとっている、しめった、なげやりな感慨である。
五十五歳といえば、つい先頃までは、たいていの会社の定年であった。現在でも、五十五歳定年の会社は、かなりあるだろう。
ところが、この五十五歳の男は、週刊誌連載小説を四本、書きまくり乍[なが]ら、テレビに出演し、パーティに列席し、自分の作品のテレビ・ドラマ化や舞台上演の打ち合せをし、友人とギャンブルをやり、銀座の酒場へ行き、地方へ講演に行く秒きざみといっても誇張ではないスケジュールをこなしているのである。
のみならず -。
二年前に、肺結核が再発し、半年ばかり慶応病院に入って、寝ていたが、勿論、治癒せぬままに、退院して、週に二度ずつ、クリニックにかよって注射してもらい乍ら、いつの間にか、元通りの多忙な日常にかえっているのである。
さらに、いけないのは、ノイローゼ、という、近親者さえも理解しがたい現代病にとりつかれて、枕に就いて数時間、睡[ねむ]ることができず、闇の中で、目をひらいていろと、名状しがたい厭世観を催して来るのである。
こころみに、ダイヤリイをひらいて、この月に入ってからのスケジュールをみてみると - 。

(中略)

ざっとこんなあんばいである。
最近、右肱の関節が、ペンを走らせはじめると、とたんに疼[うず]きはじめ、一時間も経つと堪えがたくなる。五十五歳のがたがたになったからだは、もはや、健康をとりもどすすべもない。

私が、直木賞を受賞したのは、三十五歳の時であった。それから四年後に「眠狂四郎」を世間に送り出し、爾来[じらい]、一週間も、週刊誌の連載を中止したことがない。
十五年間、働きづめに働いたことになる。精神も肉体も、がたつかないはずがない。典型的な日本人の律儀さを、自分の中に、みる。
私の家の応接間には、自分の本だけをならべた棚があるが、そのおびただしさを、時折り眺めやって、あきれる。いったい、幾万枚書いたのか、自分でも、かぞえきれぬ。
現在では、私などよりはるかに多量の生産をする作家が、幾人もいるが、かれらもまた、わが本のおびただしさに、時折りはあきれているのではあるまいか。
しかし、多量生産の感慨と厭世観とは別である。
月に千枚近くも書きまくって、けろりとしていた時期もあった。四十代の半ばであった。
十年前である。五十五歳という年齢が、私に、
-もうあと、いくばくもない。
と考えさせるようになり、それが厭世観とむすびつうた。
時代のテンポの速力に、精神も肉体もついて行けなくなったのである。
二十八年間も、グアム島のジャングルに潜んでいた日本兵のニュースは、札幌オリンピックのために、薄れ、笠谷の栄光は、ニクソンの訪中で、たちまち、遠ざかった。
この目まぐるしいマスコミュニケーションの報道ぶりを、ただ、面白がって、新聞やテレビや週刊誌にいつの間にかふりまわされている自分を、イヤにならない人間は、よほど鈍感か、それとも、強靭な神経の所有者といわざるを得ぬ。
私自身、数年前までは、世間をどんな事件がさわがせようと、身近な人がおそろしい目に遇ったり、あるいは亡くなったりしても、一向に平然としていた。
乱世をいとい、出家遁世した史上の人物など、全く興味を抱かなかった。自分自身に、やがて、出家遁世の気持が生れようなどとは、毛頭みじんも - 夢想だにしなかったからである。

私は、兵隊の時、輸送船が撃沈され、バシー海峡で、数時間泳いでいる経験を持っている。
- あの時、死んだと思えば......。
その気持が、私に、あらゆる場合、くそ度胸めいた行動をとらせて来た。
外国のカジノなどで、腰を据えている時には、殊更に、私は、自分に、
-あの時、死んだと思えばいいじゃないか。
と云いきかせで、有金をつぎ込ませた。そして、そのくそ度胸が、しばしば、私の目の前に、チップスの山を積ませた。
自分の中から、すこしずつ、削りとられゆく何ものかをおぼえるようになるとともに、すべてのことに対して、虚しさがともなうようになったのは、あるいは、肺結核の再発というきわめて単純な生理的な原因であったかも知れぬ。
それにしても - 。
世間を大さわぎさせている行事や事件を、見聞させられている時、
-どうせ、すぐ終ってしまうのだ。
という思いがつきまとうのは、やりきれたものではない。
最もいけないのは、私がつきあっているマスコミュニケーションの関係者は、二十代、三十代の、死を遠いところに置いている人たちばかりである。
なにかの会合で、ふと見まわすと、私が最年長である。
- そうか、おれの人生も、そろそろ、終末に近いな。
そう思わざるを得ない。
使いすぎた肉体に、強靭な神経だけが残っているはずはない。神経もまた、すりへってしまっている。
「生きているのが、そろそろ、面倒になってきたな」
「そうだね、といって、自殺するのも、ばかばかしいし......」
「尤[もつと]も、お互いに、かなり好き勝手なくらしをしているがね」
「定年を迎えたサラリーマンに比べれば、まあ、ましな方だろう」
「そういうことか」
こんな会話が、同年代の友人と逢っていると、必ず交わされるのである。
親しい友人が、つぎつぎと逝くことが、次第に、こたえて来たのである。
私が長いあいだ挿絵をつきあってもらったN氏が、私の旅さきの旅館へ、長距離電話をかけて来て、
「もうだめですわ。いろいろお世話になりました。ひと足おさきに、逝きます」
と、別離を告げた時、私は、はじめて、心臓に鋭い刃物を刺し込まれたような悲しみにおそわれたことだった。
N氏はそれから一月後に、逝った。
出棺の際、蓋がひらかれ、その死顔を、七十年配のお婆さんが、やさしく撫で乍ら、
「こんなに、痩せて......」 
と、ほろほろ泣いていた光景が、私を幾夜も、ねむらせなかった。
N氏は、私より一歳年上であった。その人柄は、私の知る限りの知己の中でも、最も良かった。
N氏が装幀[そうてい]してくれた私の本は、かぞえきれぬくらいある。したがって、書斎で視線をまわせば、その本が、すぐ目に入る。
とたんに、
- ああもう亡いのか!
その感慨がこみあげて来て、私は、しばらく、ペンを走らせる手を止めることになるのである。
人の生涯の短さは、私のような一見ふてぶてしい男にも、五十五年を生きて、いったい、おれは何をしたのか、と反省させる。
反省は、しかし、精神の浄化にはむすびつかない。
相変らず、私は、多忙きわまるスケジュールをこなした。就寝しては闇の中で、厭世観になやまされているにすぎぬ。
突如として、ペンをすてて、行方を絶つ勇気は、私にはない。
といって、私は、いたずらに老醜をさらして、いきつづけるのも、まっぴらである。
頃あいのところで、神が片づけてくれるのを、希望している。
と - こんな文章を書き乍ら、私は、自分に問うている。
- おれは、なんのために生きているのか?