(巻三十五)作品としては未熟の入道雲(濱上こういち)

(巻三十五)作品としては未熟の入道雲(濱上こういち)

10月25日火曜日

朝家事。掃き掃除、洗濯。曇天、やや強風で迷ったが外干しにした。

顔本に甲府にお住まいと思われるおじさんから友達リクエストが入った。プロフィールの限りでは悪い人ではなさそうなので即承認いたした。そうしたらもう一件リクエストがきた。Beccaという女性でプロフィールをみたら日本の方だ。「止めときます。美人だから。」と辞退した。ショート・メールには「当選おめでとう云々」が入り、直ちに消去。先日は“国税庁”がお金を呉れると云ってきた。危ない危ない‼

昼飯喰って、洗濯物を取り込んで、昼寝はせず、散歩もせず。早くも冬籠もり?

『「安楽往生 - 本多秋五」私のアンソロジー7から』を読んだ。1972年3月の初版本だ。書架ではなく、保存庫にあったようで、後ろについていた貸出し記録だと30人弱の方が借りている。保存庫から出てくる本の中には全く手垢のついていない本があるが、この本は一時よく読まれたようだ。

願い事-涅槃寂滅。

As a well-spent day brings happy sleep, so a life well-spent brings happy death. Da Vinci

だそうだから、あまり望みはもてないか?

「安楽往生 - 本多秋五」私のアンソロジー7から

《前には、いま死んでも死にきれない、と思うことがあった。親鸞は六十から、蓮如は五十から、おれは九十まで、などと高言したのは、その位長生きせねは、やりたいことがやりとげられぬ気がしたからであった。それがいつの間にか、それほどの執着がなくなった。

数年前に、心筋梗塞の発作に見舞われ、健康にヒビが入ったと自覚したときから、そんなに長生きはできぬ予感がして、その予感に自分がだんだん順応してきたのであるらしい。

死そのものは、そんなに恐ろしいとは思わない。現実に死がさし迫ったとして、いつも眼前にあるのでないためかもしれないが、死がときどき休息のように感じられ、このまま消えて無くなることができるのなら、消えて無くなりたい、と思う瞬間もある。恐ろしいのは死の苦痛である。

菊地寛は一週間ほど病気をして、それがよくなったので、主治医や近親のものを招いて内輪の全快祝いをして、自分の好物の寿司をたべたりして、二階へ上って狭心症の発作におそわれて死んだ。その間わずかに十分間であったという。その十分間が恐ろしい。》

この作者の死に様はどうだったのだろう?ネットを見たら2001年に92歳で脳溢血でなくなったとある。この作品に書いた希望にほぼ沿った死に様のようだ。