1/4「「老い」の見立て - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

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1/4「「老い」の見立て - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

荷風が「断腸亭日乗」を書き始めたのは、大正六年九月、三十七歳、数え年三十九歳のときである。大正六年といえば、荷風はすでに「あめりか物語」(明治四十一年)、「ふらんす物語」(明治四十二年)、「すみだ川」(同)、「日和下駄」(大正三-四年)などを発表し、作家としての地位を確立している。
私生活では二度の結婚を解消し、その後、生涯にわたることになる単身者生活を始めている。また帰朝以後就いていた慶應義塾大学部文学科教授の職を辞し、より自由な文士生活に入っている。筆一本の生活を始めている。さらに、大正九年には、昭和二十年の空襲で焼かれるまでの住居となる偏奇館を麻布市兵衛町に建て(正確には改築)、そこに転居している。
つまり、「断腸亭日乗」が書き始められたころは、その後の荷風の生活を決定する条件 - 自由な文士生活、単身者、偏奇館での独居 - がすべて出そろった、荷風の人生の最盛期の始まりということが出来る。「断腸亭日乗」起筆から偏奇館焼失までの三十年間は、荷風が、その独特の一人暮しの生活スタイルを作り上げてゆき、経済的にも安定し、彼なりに人生を楽しんでいた時代である。とはいえそれはけっして積極的な楽しみ方ではない。むしろ社会的現実から一歩身をひいた、消極的な楽しみ方である。そこがいかにも荷風らしい。
断腸亭日乗」を読んでいてまず驚くことは、荷風が自分を「老人」とみていることである。前述したように、「断腸亭日乗」起筆のとき荷風は三十七歳。いくら平均寿命がいまより短かかった時代とはいえ、決して老け込む年齢ではない。にもかかわらず、荷風は自分のことを隠居した老人のように見ている。たとえば、日記が書き始められた大正六年九月二十日には、「されど予は一たび先考[せんこう]の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀[こいねが]ふのみ」とある。「先考」、つまり、父親が建てた、「来青閣」と呼ばれた大久保余丁町の家で、静かに「余生」を送りたいといっている。三十七歳の人間が「余生」という言葉を使う。いくら現代より寿命が短かい時代とはいえ普通ではない。ちなみに父親久一郎が大正二年に脳溢血で死去したときの年齢は数えで六十二歳である。それに比べても、まだ二十年も先がある。「余生」というのは早い。
また、大正六年十月二十六日には、身辺整理をしている異様な記述がある。
「晴天。写真師を招ぎて来青閣内外の景を撮影せしむ。予め家事を整理し万一の準備をなし置くなり。近日また石工を訪ひ墓碑を刻し置かむと欲す」
三十七歳の男が、身辺を整理し、さらに、墓碑の準備までしている。普通とはいえない。
しかし、「余生」「万一の準備」とあるわりに荷風は元気で、大正六年、七年を無事に過ごす。そして大正八年一月十六日にはまた、こう書く。
「余既に余命いくばくもなかを知り、死後の事につきて心を労することすくな[難漢字]からず」
三十九歳の男が「余命いくばくもなき」と書く。これもまた普通ではない。「断腸亭日乗」を読んでいてまず驚くのは、荷風が終始、自分の気力、体力が落ち死期が近いのではないかという恐れを抱いていることである。
昭和三年三月二十九日、「春来神経衰弱症ますます甚しく読書意の如くならず、旧稾を添削する気力さへなく、時々突如として睡眠を催すことあり、眠れば昼となく夜となく必悪夢に襲はる、何とはなく死期日々近き来るが如き心地するなり」
身体の不調が続き、「死期」が近くなったのではないかと不安になっている。翌三月三十日には、「今よりそろそろ終焉の時の用意をなし置くなり」とある。さらに、昭和十一年二月二十四日には「余去年の六七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり」と書いたあと、「依てここに終焉の時の事をしるし置かむとす」とし、「余死する時葬儀無用なり」「墓石建立亦無用なり」など七項目の「終焉の時の事」を掲げている。死への心の準備といえようか。この年、荷風は五十七歳。