2/4「「老い」の見立て - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

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2/4「「老い」の見立て - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

なぜ荷風は「余生」とか「万一の準備」「余命いくばくもなき」と、大仰とも見えることを書いたのか。なぜいつも死を自分の近いところに置いたのか。
まず、荷風が本当に身体が弱かったということがあるだろう。荷風は子どものころからいわゆる蒲柳[ほりゆう]の質で病弱だった。随筆「十六七のころ」(昭和十年)によると、「十六七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあった」。明治二十七年、十五歳の荷風は、結核性の瘰癧[るいれき]にかかり、下谷帝国大学病院に入院している。ちなみに十五歳の荷風は、このとき、お蓮という名の看護婦に初恋をしており、その「蓮」(はす)にちなんで、のちに自分の名前を「荷風」にしたと、随筆「雅号について」(明治四十一年)で書いている。「荷」とは「はす」のこと。
病院は退院したものの風邪をこじらせ、それが悪化して明治二十八年には逗子に転地している。その結果、学業が一年遅れることになる。
成人してからも腸が悪く、それが持病となって、隅田川沿いの中洲にある中洲病院に通うようになり、病院長の大石貞夫は、荷風の主治医のような存在になった。「断腸亭日乗」起筆のころ、荷風は大久保余丁町の来青閣とは別に、銀座三十間堀の築地界隈や出雲橋に近い路地裏に部屋を借りたが、それはひとつには、中洲病院に通う便がよかったからである。
荷風が病弱であったこと、しかも、自身がそのことを非常に意識して、病院通いのために、病院に近いところに部屋を借りるほどだったことは留意しなければならない。
荷風が「余生」「万一の準備」「余命いくばくもなき」と、ことさら死を意識したひとつの理由はそこにある。大正十年五月二十六日には「病衰の老人日々庭に出で、老樹の病を治せむとす」という記述もある。庭の病んだ椎の木の手入れをしている自分を「病衰の老人」と見ている。そのあと六月九日には、「中洲病院に往きて健康診断を乞ふ。尿中糖分多しといふ。現在の境遇にては日々飲食物の制限は実行しがたきところなり、憂愁禁ずべからず」とある。大正五年の二月に荷風慶應義塾の教授の職を退くが、そのころ書かれた随筆「矢はずぐさ」(大正五年)によれば、慶應を辞めた大きな理由は、体調が思わしくなく、朝出がけに腹痛をおぼえることが度々あったためという。職を辞し、人との付き合いもなく大久保余丁町の家に引込んでしまったいま、荷風は、荷風は、「われは誠に背も円く前にかがみ頭[かしら]に霜[しも]置く翁となりけるやうの心とはなりにけり」と書く。「およそ人の一生血気の盛を過ぎて、その身さまざまの病に冒されその心はくさぐさの思[おもい]に悩みて今日は昨日にまして日一日と老ひ衰へ行くを、時折物にふれては身にしみじみと思知るほど情なきはなし」。荷風は日記を書こうと思い立つのはこのときである。

荷風がこの時期、病気を気に病み、なんとか身体をいたわろうとしていたことは事実である。そこから彼は年齢のわりに、普通以上に死を近く意識したに違いない。
荷風がはじめて公けにした日記は、大正六年に荷風自身が主筆となった文芸雑誌「文明」(籾山書店刊)に発表した、アメリカ、フランス遊学記「西遊日誌抄」だが、荷風はその序文にこんなことを書いている。
自分はこの三年ほど体調が悪い。大石医師に余命はどれほどあるのかと聞くと、「恐らくは常命五十年を保ち難からん」という答え。「余元よりかくあらんと兼てより覚悟せし事なれば深くも驚かず」。ただその日から荷風は意識して身辺整理をするようになった。そしてあるとき書庫の棚を片づけようとしたとき、昔書いた「西遊日誌」が四、五冊あるのを見つけた。はじめこんなものを残しておいても仕方ないと庭で焼き捨てようとしたが、ふと読み返していくうちに「感慨忽ち禁ぜず、薄暮迫り来るも猶巻を?ふ事能はず」。ついにこの日記を、後日人の迷惑になるようなところを削って、再び書庫におさめた(これを大正六年に「文明」に発表する。当初は、「西遊日誌抄」ではなく「西遊日誌」と題された)。
つまり、「断腸亭日乗」のもとともいえる「西遊日誌」は、大石医師から長生きは出来ないといわれ、覚悟のうえで身辺整理したところから陽の目を見るにいたった。とすれば、荷風にとって「日記」つけるとは、死に向かっていく日々を確認していく毎日の遺書だったと見ることが出来る。だからこそ荷風は「余生」「病衰の老人」と書くのである。「断腸亭日乗」か四季の観察、植物への視線に富んでいるのも、死を意識した荷風が「末期の目」で周囲を見ようとした結果だろう。
だが、荷風が「余生」と書き「病衰の老人」と書いたのはそれだけが理由だったのだろうか。現実に病弱だったからという理由だけで荷風は自分を「老人」と呼んだのだろうか。どうもそれだけには思えない。荷風は好んで自らを「老人」に擬したのではないか。「老人」に見立てたのではないか。
荷風のなかには時代の生ま生ましい現実と直接関わりを持ちたくないという消極的な反俗精神があった。さらに俗世から離れた草庵で静かな生活をしたいという文人趣味、隠棲趣味、世捨人志向があった。「若さ」よりもむしろ「老い」のなかに、美しさを見たいという老人趣味があった。
そうした傾向が重なり合って荷風は自らを好んで「老人」に見立てていったのではないか。病弱であったことは事実としても、それを普通以上に意識することで、だから現実とはなるべく関わりたくないのだという、逃避の口実にしたのではないか。
この点で近代文学研究家、成瀬正勝は「荷風の日記」(「文学」一九六五年五月号)のなかで面白い指摘をしている。
「同時にこの病弱は早世の恐れを絶えず意識させ、自閉的性格のなかで孤高への道を拓きもした。そして不快な社交的な煩いからの巧妙な脱走をはかるために、持病のためという口実をもうける手段ともなったのである」
つまり荷風は事実としての「病弱」に、意識としての「老い」を重ねることで巧みに「孤高」の立場を作っていたのである。