3/3「単身者の文学 - 川本三郎」岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

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3/3「単身者の文学 - 川本三郎岩波現代文庫 荷風と東京(上) から

断腸亭日乗」の初期には、こういう単身者の静かな生活が淡々と記述されている。清々しい孤独である。大正十二年五月二十九日には、「終日家に在り。風呂場を掃除す」とある。後期、晩年の独居には疲れが色濃く出てきて読んでいて痛ましいが、大正から昭和にかけては、荷風は、静かに独居を楽しんでいる。荷風も若かったし、社会もまだ安定していた。利子生活者として、高等遊民として、荷風は独居の侘しさすらも「無限の詩味」ととらえることが出来た。
荷風は自炊もいとわなかった。
大正六年十月二十二日、「夜執筆の傍火鉢にて林檎を煮る」
大正六年十一月三十日、「この頃小蕪味ひよし。自ら料理して夕げを食す」
大正九年一月一日、「自炊の夕げを終りて直に寝に就く」
短篇小説「女中のはなし」(昭和十三年)には、独居する「わたくし」が「焼パンとコーヒーと、西洋独活[せいよううど]の罐詰」の朝食を自分で支度する描写もある。
もっとも、他方で自炊に疲れたので近くの山形ホテルで食事をするとか、下働きが来なくなったので自炊が面倒だ、という記述もあるので、自炊の回数はさほど多くはなかったろう。ただ、荷風は日記のなかで自炊すらも単身者の風流と見立てたかったのだろう。
しかし、荷風が麻布の偏奇館を建てる(正確には改築)にあたって、単身生活を当初から心づもりしたことは明らかである。偏奇館を西洋館にしたのはひとつには、そのほうが一人暮しには適していた。偏奇館を建て、移り住んだのは大正九年のことだが、その年の一月三日には次のような記述がある。
「歩みて芝愛宕下西洋家具店に至る。麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。日本風の夜具蒲団は朝夕出し入れの際手数多く、煩累[はんるい]に堪えず」
単身者の生活は精神的自立と生活的自活を必要とする。荷風が麻布偏奇館を建てるにあたって自立だけでなく自活もまた心づもりにしていたことがわかる。二十代でアメリカ・フランスに留学し、自活生活に馴染んでいた荷風にとっては、自活は決して苦ではなかった。そして自活の生活からくる労苦がたとえ健康をむしばんだとしても、この自覚的単身者は、その負債すら背負いこむ覚悟であった筈である。

後年、昭和十五年五月一日には、次のような痛ましい記述がある。単身者の現実がうかがえる箇所。
「黄昏土州橋医院に至る。院長余が自炊の生活過労のおそれありとして頻に入院静養の必要を説く。浅草に行かむと思ひしが院長の忠言を思起し銀座を過りてかへる。余が下女を雇はず単独自炊の生活を営み初めしは一昨々年昭和十二年立春の日よりなれば満三年をすごせしなり」
「自炊の生活過労」のために医者に入院静養をすすめられている。にもかかわらず、荷風はそれに従おうとはしない。相変らずの単身者の生活を続ける。これは晩年、身体が弱ってもついに入院せず、自分の部屋でひとり死んでいった壮絶さに通じる。荷風の単身者ぶりは筋金入りである。単身者の自由勝手、気ままな放恣を楽しむかわりに、決して泣きごともいわない。快楽が危機と隣り合わせであることを覚悟のうえでの単身者に徹してしいる。だから次のような、快楽主義者としての荷風の言葉も、いい気な世迷いごとではないのである。「孤独の清絶」をよしとしながらも同時に、女性の肌もまた恋しいといっている、いかにも荷風らしいくだり。
大正十五年一月二十二日、「然りと?淫慾も亦全く排除すること能はず。是亦人生楽事の一なればなり。独居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の楽しみもまた容易に廃すべからず、勉学おもしろく、放蕩も亦更に愉快なりとは、さてさて楽しみ多きに過ぎたるわが身ならずや。蜀山人が擁書満筆の叙に、清人石ホウ[難漢字]天[せきほうてん]の話を引き、人生に三楽あり、一には読書、二には好色、三には飲酒、是外は落落として都[すべ]て是なき処。といひしもことわりなり」
単身者荷風は、同時に誰よりも快楽主義者である。隠棲者のストイシズムと、金持の独身男性の放恣な快楽主義が、荷風のなかでは自然に同居している。「明治」のストイシズムと「江戸」のデカダンスが不思議と一体化している。はじめて老眼鏡を買った大正九年七月二十七日にはこんな自虐的なことを書く。
「銀座松島屋にて老眼鏡を購ふ。荷風全集ポイント活字の校正細字のため甚しく視力を費したりと覚ゆ。余が先人の始めて老眼鏡を用ひられしも其年四十二三の時にて、余が茗溪の中学を卒業せし頃なるべし。余は今年四十二歳なるに妻子もなく、放蕩無頼われながら浅間しきかぎりなり」
断腸亭日乗」は、単身者でなければ完成しえなかった。その点で、中村光夫が『《評論》永井荷風』(筑摩書房昭和五十四年)で明らかにしているエピソードは実に興味深い。
終戦後、偏奇館を焼かれ、熱海に独居していた荷風に、批評家としてではなく筑摩書房の一編集者として会いにいった中村光夫に、荷風はこんなことをいったという。
「戦災と流浪の旅のあいだも彼は草稿と日記の這入った鞄は手放さなかったのですが、その熱海を訪ねたとき、偶然日記帳を整理しているのにぶつかったことがあります。そのとき、自分が日記をつけるのは、外出から帰って、ガスで湯を沸かす五分ほどの間が主だ。長年つづいたのは、独身で見られて困るような人間がいなかったからだと云いました」
単身者荷風の面目躍如である。