「透脱道元(抜書) - 上田三四二」新潮文庫 この世この生 から

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「透脱道元(抜書) - 上田三四二新潮文庫 この世この生 から

用便の作法は詳細をこえてほとんど煩瑣[はんさ]にわたっている(「正法眼蔵・洗浄」)
東司[とうす](厠)に行くにはかならず手巾[しゆきん]を携え、手巾は二つ折りして左臂[ひだりひじ]に掛ける。厠にいたればそこにある竿[かん]に手巾をそのままの形で正しく掛け、袈裟を着けておればそれも並べて掛ける。不注意に落としたりしてはならない。あたりはすでに不浄の界だからである。長い横竿のどのあたりに掛けたかをたしかめ、竿の印[しるし]を覚えておく。混雑してきても、自分のも他人のも、掛けてある竿の位置を動かしてはならない。居合わせた同僚には挨拶をする。身をかがめる必要はなく、胸の前で手を組み合わせて一礼の様子を示すだけでよい。すでに片手がものに触れたりふさがったりしているときは、片方の手で挨拶をする。掌[たなごころ]を上に向け、軽くくぼめ、水を掬うようにして頭を軽く下げるのである。褊衫[へんさん]・直?を脱いで竿に掛けるには、落ちない工夫が要る。両袖と両襟を重ね。縦になかより折ってうなじのところで竿に掛け、手巾でぐるぐる巻にして結ぶとよい。ついで、桶に水を盛って厠にのぼる。桶は右手に持ち、水は九分目を限度とし、厠の入口で履物を替え、入ったならば左手で扉をしめる。ついで、桶の水をすこし便槽[べんそう]にこぼしてから正面の位置に据え、立ったまま桶にむかって指を鳴らすこと三度、そのとき左手は握って腰に当てる。思うに、握るのは左手がすでに不浄だからであろう。以下、不浄の作業はすべて左手をもってなされる。下穿[したばき]をゆるめ、入口に向って両足で槽の両縁を踏み、蹲[しやが]んで、用を足す。縁をよごしてはならない。前後に引っ掛けてもならない。沈黙を守ること。壁をへだてて談笑したり、歌ったりしてはならない。唾を吐きちらしたりしないように。壁の落書無用。へらで地面を掻くのもいけない。用を終ったならば前の棚にある八寸ばかりの三角形のへらをもって拭く。紙でもよいが、字のあるものはいけない。つかまえてへらは使用済の容器に投げ入れておく。へらや紙を使ったあと、桶の水で局所を洗浄するが、そのやり方は右手に桶を持ち、左手をよく濡らしてから水を受け、まず小便の部位を洗うこと三度、ついで大便の部位をていねいに洗う。そのときむやみに桶を傾けて水を無駄にしてはならない。洗い終ったら桶を立て、へらを取ってぬぐい乾かす。それには紙を使ってもよい。大小の両処もよくよく拭いて乾かすがよい。ついで右手で下穿を正し、右手に桶を下げて厠を出る。出るときは履物を替える。それから桶を棚に返す。

つぎには手を洗う。初めに灰を使う。さじで灰をすくい、瓦石[がしやく]の上にとり、右手で水をさたたらせ、不浄に触れた左手を洗う。瓦石に左手ん当てて研ぐようにし、灰を三度替えて洗うのである。それから灰のかわりに土を置いて同じように水を点じて三度こすって洗い、その後さらに右手にサイカラ[難漢字] - からたちの実を粉にしたものをとって小桶の水にひたし、ここではじめて両手を揉み合わせて洗う。腕のところまでよく洗うのである。誠をこめて一心に洗うがよい。灰三、土三、サイカラ一である、合わせて七回を適度とする。つぎには大桶で洗う。そのときは薬料や土灰を用いずただ水なり湯なりで洗う。一度洗って、その水を小桶にうつし、さらに新しい水を入れて両手を洗うのである。
柄杓[ひしやく]を取るにはかならず右手をもってせよ。柄杓の音を騒がしく立てないように、水をこぼしてあたりを濡らしたり、サイカラを散らしたりしてはならない。ついで共用の手巾で手を拭く。自分の手巾で拭くのもよい。拭き終ったならば竿のところに行って合掌して直?を着し、衣服をあらためてから手巾を左臂に掛け、香をつける。宝瓶[ほうびよう]形、拇指[ぼし]大の共用の香木が紐をとおして竿に下げてある。それを掌に揉み合わせると香気がうつるのである。......
何という厳密、慎重。一体、何度手を洗えば気が済むというのだろう。この煩瑣なまでの作法は潔癖症のそれに似ていないことはない。そして厠に入ってからの動作で右手を浄に保ち、左手をして不浄を行わしめるという使い分けは、事実上の浄不浄を超えて観念化し、象徴的な行為となっている。
浄身への願いは道元において異常なまでに強い。逆に言えば、その背景に不浄への怖れが不潔恐怖症を思わせるするどさを見せて横たわっている。左手のみの用手、六回にわたる左手の研磨のような洗浄、そして七回目にはじめて右手は左手に触れることが許される。それもサイカラをもってもういちど丁寧に洗うためである。手洗は水を替えてなおも繰り返される。着衣はその後でなければ許されない。
身体は不浄に染[し]みているが、身中の不浄を放つ用便という行為は、身体清浄のための契機たり得るといっていい。道元は身の不浄を去れという。そのため見てきたような徹底洗浄の作法があるのだが、彼はそれらの作法が実際に身体を潔[きよ]めるだけでなく、よりいっそう象徴的な行為であることを知っていた。神経症的な行為と見えたものは、道元の意識において、それは仏祖の行跡を践[ふ]みその教えの中心にいたるための自覚的行為だった。
(ここまでにします。)