「まして悪人をや - 植松一信」93年度新鋭随筆家傑作撰から

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「まして悪人をや - 植松一信」93年度新鋭随筆家傑作撰から

つい三、四年前から、うちのお寺で何か行事があるたびに、住職から手伝い要請の電話がかかってくる。たとえば、
「○月○日に報恩講法要を営みますので、また手伝ってくれませんか?」とか、「永代経法要がありますから......」などといったぐあいである。 
その手伝いの中身というのは、法要案内を模造紙一枚にでっかく書いて寺の門前に掲示したり、永代経進納者の氏名と金品の額を、長い紙に書いて本堂の壁にぶら下げたり、法要当日は、参詣者の懇志による、やはり金品の額と氏名を横長の紙に書き連ねて、本堂の長押[なげし]にはりつけたり、つまり書き役である。
もともとこれは、檀家の中の筆のたつ役員の仕事だったのだが、このところ、その役員がご老体となり、手足が不如意となられたものだから、同じご老体とはいえ、まだいくらかは身のこなしが利く私が、補助要員として登用(?)されたわけだ。もちろん私は、役員でも何でもない。タダの檀家である。それに、別段筆がたつわけでもない。
それでいて、「出て来い」と言われたら、余程の事情がないかぎり「ハイハイ」と二つ返事で寺へ出向く。年に二十数回こんな日がある。家族な知人が、
「あんたは死んだら、極楽往生まちがいなしだよ」
と、保証してくれる。
そう見えるかもしれない。たしかに傍目[はため]には、いかにも信心深い好好爺と映るらしい。年齢も、あと三年で七十歳、頭髪はシオゴマ、まだ身のこなしは利くとはいえ、世の中からは、とうの昔に見限られた境涯である。自分でも、お寺通いが板についた感が深い。
ところが、その中身はとなると、はなはだ遺憾な次第ながら、私にはまだ、信仰心というものがない。呼び出されるから面白半分に出かけるだけだ。としから言っても、もういいかげんに念仏三昧の境地になってもいいはずなのだが困ったものだ。したがって、私の極楽行きには大幅の懸念が残る。
ところで、法要の当日に鐘を撞[つ]くのも私の仕事である。これは、やってみるとよく分かるのだが、鐘楼に上り、鐘を撞くのは、なかなか気分のいいものである。
一回、二回と橦木にはずみをつけておいて、三回めで思いっきりどやしつける。とたんに吊り鐘が、閻魔大王の怒号もかくやと言わぬばかりの大音響をあげる。遠くで聞く鐘の音はのどかなものだが、直下ではすさまじい。腹の底にこたえる。とてもじゃないが「祇園精舎[ぎおんしようじや]の鐘の音」なんてものじゃない。その音が束になって渦を巻き、吊り鐘の黒い穴から吹き出される。それが境内をうねり、寺の生け垣を乗り越え、怒濤のごとく街の中へと押し出して行く。屋根屋根を渡り、軒を潜ってのたうって行く。

それでも、そのうねりはやがておとなしい余韻になって、さしもの鬼の音声[おんじよう]も、ようやくにして「諸行無常」の音色に変わる。
その音が、蚊の声みたいに細くなると二つめを撞く。この間約一分である。これを十回重ねる。ところが、約一分の間をおくものだから、撞き進むにつれて、撞いた数がだんだん怪しくなってくる。十[とお]撞いたつもりでいて、「ハテナ、もしかして九つじゃなかったかな?」なんぞと戸惑うことがしばしばおこる。そんな場合はひとつ余分に撞いておく。いつだったか住職の奥さんに、「今日は十一鳴りましたね」と冷やかされたことがある。私は、
「いやあ、最後のひとつはサービスですよ。地獄の沙汰もカネ次第って言いますからね」
と答えておいた。まだ四十を過ぎたばかりのその美人の奥さんは、「オヤ、まあ!」と、あきれかえって笑いこけておられた。
それでも鐘を撞いたときだけは、さしものエセ信者の私も、何やら仏のみ心にふれたような気分になるから不思議である。撞いたとたんの衝撃音で、日ごろの煩悩が木っぱみじんに撞き砕かれ、次第に尾をひく余韻に乗って、私の魂が、西方浄土へ導かれてでも行くかのようにアリガタクなってくる。これは理屈抜きである。
法要開始の時刻になると、本堂には、百人余りの善男善女が、いとも神妙にひかえている。ただし、この善男善女は、ことごとく七十歳以上の生き仏様たちである。七十前の悪男悪女は沙婆の業務に忙しく、寺参りどころではないのだろう。
私は例によって、数名の役員と横座に陣どり、役員が受けつけた金品の記帳をはじめる。
ほどなく読経がはじまる。善男善女一同は一様に手を合わせ、そこからは念仏の合唱がおこる。
「ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ......」
私も一応それにならう。「一応」という意味は、まことに相すまぬ話だが、「形だけ」ということである。そして、荘厳な内陣の阿弥陀像や、厳粛な僧侶の後ろ姿や、合掌し念仏する白髪、禿頭の一群を、覚めた目で見渡している自分に気づく。同時に、
「やっぱり、おれはほんものじゃないな!」
と、心の中でつぶやくのである。
読経が終わると説教がはじまる。アリガタイ説教である。そのアリガタさの山場山場で、善男善女の「ナンマンダブ」が何度もおこる。私は、ナンマンダブも説教も空耳に聞き流して、わが仕事に忙殺される。
約二時間の説教が終わると、法要はおしまいである。そのころには私の仕事も終わる。やれやれと大息をついてお寺を後にする。帰り道では、もうナンマンダブも、ついいましがた聞いたばかりのありがたい説教も頭にはない。頭の中には、三時間近くぶっ通しで根[こん]をつめた疲労が残っているばかり。頭の上には、その日のお天気が横たわっているだけである。
どうひいき目に見ても、この私という凡俗は、善男善女の範疇に入れそうには思えない。だからと言って、何も悪いことをした覚えもないから、悪人ときめつけるわけにはいかないだろうが、それにしても、かくのごとく信心に身が入らないとあってみれば、他日私がご他界あそばした暁(日暮れかな?)の行く先には、何とも心もとない気がしてくる。地獄の一丁目の手前あたりでうろうろしている自分の姿が目に浮かんできて、そのたびに、「困ったものだ!」と愚痴をこぼすのである。
ただ、とはいうもの、まるっきり希望がないわけでもない。と言うのは、わが浄土真宗ね開祖「親鸞様」は、「善人なおもて往生を遂ぐ、まして悪人をや」と、仏の慈悲を?明し、どちらかと言えば、善人よりも悪人の側に肩入れをしておられる。
したがって、この開祖のことばを信ずるかぎり、たとえ私が、仏の目からは悪人に傾いていようとも、「後生安楽」はアテにしていてもいいような気がする。