「涙ぼろぼろ廃線旅行 - 嵐山光三郎」日曜日の随想二〇〇八 から

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「涙ぼろぼろ廃線旅行 - 嵐山光三郎」日曜日の随想二〇〇八 から

ここ一年間、日本全国の鉄道廃線跡を旅してきた。廃線旅行というと、「いよいよ廃墟めぐりの心境ですか」と同情されるが、なに、若いときから廃墟願望があった。
廃線になると、みるまに軌道に草木がおい繁[しげ]り、鉄橋は朽ちて、トンネル側壁がひび割れていく。山線の線路や駅舎が原生林に呑みこまれるから、長靴をはいて、鉈[なた]で藪の枝を刈りながらの行進となる。トンネルに入るときは懐中電灯が必要だ。かなり命がけの探検なのである。
廃線に点在する駅舎は、コンクリートの歌枕である。錆びたレールを踏んで歩くのは体力も精神力もいる。使命を終えた鉄道を見届け、この世の無常を知る。そして自分にカツを入れるのである。
すべての鉄道は、いつの日か廃線になる運命にあり、それは人間の肉体も同じである。無限の空漠を見る。行き交った時間の地平に旅立つ。
能登半島のと鉄道は、日本海沿いのローカル線でも、とびぬけて美しい海岸沿いを走っていた。
半島の先端へ向かうと、濃紺の海がおしよせて、列車の窓にはねかえるほどであった。恋路という駅があり、男女の悲恋伝説が地名となった。そのさきにある軍艦島は夕陽を浴びて、岩膚[はだ]が赤く染まり、岩の軍艦がいまにも上陸しようとしているかのようだった。江戸川乱歩の小説『孤島の鬼』の悪漢はこんな島に住んでいるのではないか、と思案した。
北陸本線の津幡から和倉温泉までは七尾線、さらに穴水まではのと鉄道が走っているが、そのさきの蛸島[たこじま]まで(能登線)が二〇〇五年四月に廃線となった。
能登空港から穴水へは立派な道路ができた。そのかわり、穴水から縄文真脇[じようもんまわき]を経て九十九[つくも]湾、恋路海岸、蛸島へ向かう海沿いの鉄道が消えた。残しておきたいローカル線から順番に消えていくのである。
縄文真脇駅は、二階建てのログハウス造りでしゃれた駅舎であったが、床が抜け落ち、無残な姿をさらしていた。蜘蛛の糸が風に吹かれている。
駅前のタンボは縄文時代真脇遺跡である。大量の出土品があり、そのうちの二百十九点が国の重要文化財に指定されている。縄文初期(六千年前)から晩期(二千年前)まで、じつに四千年にわたり、この地に人が住んでいた。出土品はおどろくほど多彩で、土器、石器、竹縄、装身具、巨大な柱が多い。

能登はいまでこそ辺境の地であるが、かつては中国大陸へ向けての表玄関であった。
出土品を展示している遺跡縄文館へ向かうと、霜柱の大軍にむかえられた。地表に十五センチほどの霜柱が立ち、靴で踏むとはがねの音がした。踏みしめた靴の下から土の匂いがたちのぼる。軌道のレールは撤去され、芒[すすき]の道がつづいていく。
鉄道は妙なたとえだが、地域との結婚なのである。なにもなかった原野に鉄道が敷かれれは、路線沿いに生活区域が生まれる。線路は血脈の延長であって、どのような路線も地域に命を与える。一度鉄道を走らせてしまってからはあとにひけない。廃線にするのは、一家心中を無理強いするようなものなのだ。電車だけ逃げて、地域は死ぬ。軌道は手術の傷跡みたいに残る。いつまでも残る。
遺跡縄文館に、忘れられない土器がある。縄文中期の通称鳥さん土器で、土器の片面に鳥の顔がつけられ、土器全体が水鳥に見える。これだけの出土品から推定すると、ここ一体が四千年間にわたって、他に例を見ない繁栄をつづけた長期定住型集落であったことがわかる。
海が荒れている。
雷の音がする。鰤起しといって、北陸の沿岸に鳴り響く雷である。夏の雷のように天地を裂くほどの激しさはなく、低く、重く、ビリビリと響く。指と指のあいだに、鰤起しの神が降ってくる。
九十九湾に出て、荒れる波を見ていると、稲光りがして、波の形が止まって紫水晶色になった。波のてっぺんに力がみなぎって、うねりが紫水晶の輝きを発した。
廃線の駅をひとつづつ捜して歩いた。白丸[しろまる]、久里川尻[くりかわしり]、恋路、鵜島[うしま]、南黒丸[みなみくろまる]、鵜飼[うかい]、上戸[うえと]、珠洲[すず]、正院[しよういん]。いずれもいわくありげな地名である。駅のベンチにからまった蔦の巻きひげが枯れている。這[は]いずりまわる犬のような嗅覚が廃線旅行の要諦である。ひたすら、時間の匂いを嗅ぐ。
風と雑草が駅舎を食い荒らし、『雨月物語』に出てくるような化物屋敷があった。風化する時間の実物を味見するのは、西行芭蕉より伝わる日本人の伝統である。
きのうまで東京の喧噪[けんそう]のなかにいて、一時間きざみで仕事をしていたのに、ここでは時間が止まっている。いや、動いているのだが、それが見えない。
その夜は、終着駅蛸島にある駅前旅館に泊った。鉄道が消えても、駅前旅館の玄関にはクリスマスのイルミネーションが点灯しているのだった。
犬が鳴く。
風が叫ぶ。
翌朝、旅寝の手足がさめぬまま蛸島駅へ行くと、黒々とした里山に虹がかかった。奥能登の虹。眼を閉じても、瞼[まぶた]の裏で虹の七色がざわめいている。