1/2「終わりは自然 - 養老孟司」中公文庫 ぼちぼち結論 から

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1/2「終わりは自然 - 養老孟司」中公文庫 ぼちぼち結論 から

この連載も、今回でおしまいである。以前からどこかで打ち切りたいと思っていたが、あと半年といわれて、今回がその半年目。
昨年から今年にかけて、同年輩、同級生が四人亡くなった。そろそろ私も順番待ちになった。天国だか地獄行きだかの列車待ち、列の先頭が見えてきた感じである。
べつにどこか具合が悪いというわけではない。そうかといって、他人を押しのけても世の中に出て行こうという年齢でもない。ひたすら死ぬ順番待ち、それなら社会的な仕事はだんだん引っ込んで当然である。連載というのは、いわば半公式の仕事で、勝手に休むわけにいかない。それを思えば、何年もまあ、無事によく続いたものだと思う。途中でなにか事故があっても、おかしくなかった。この先はもう、事故があって当然みたいな年齢だから、ボチボチやめようと思ったのである。
もともと社会的な関心が高いほうではなかった。そもそもの仕事が基礎医学で、趣味が虫集めだから、それで当然ではないか。それが社会時評みたいなことをする。それは無理だから、自分の本音が出てくれば、やめたくなるに決まっている。ある年齢を越えると、努力というのができなくなる。無理してやらなくたっていい。たいていのことは、まあ、いいか、になる。世間の出来事に対して、とんでもないとか、ダメだとかいったところで、老いの繰り言にしか聞こえまい。
残ったものは、自然への関心である。自分が自然に還るのだから、それでいいのだと思う。今日はたまたま箱根の山から横浜まで出てきたが、山の桜は美しかった。ソメイヨシノではない。土地の人はフジザクラ、オトメザクラ、マメザクラなどと呼ぶ。灌木に小ぶりの花がついて、地味だが、気がつけば鮮やかに目に残る。日本の新緑は本当に美しい。紅葉を愛でる人は多いし、ドライブマップには紅葉印がついている。でもそういう場所なら、かならず新緑も美しい。広葉樹が多いということだからである。
そういう中に置かれると、モミやツガのような針葉樹の黒さも引き立つ。さまざまな色調の桜色、淡い緑に混ざって、黒のパッチワークが見える。その混ざり方がまさしく「自然」である。そうした黒の配置をなんといえばいいのか。ある意味ではデタラメというしかないが、決して無原則ではない。じゃあどういう原則かというと、それを「自然」というしかないのである。樹木の葉が思い思いの方向に向いているのに、全体として調和がとれている。それと同じことであろう。長い間そういうものを見慣れてきたので、そこに自然の法則を見てしまう。
樹木の葉なら、一日のうちに受ける太陽の光が、一本の樹木全体として最大になるように配置されているはずである。ところが太陽は時々刻々、位置が移動する。さらに日々、東西に若干ずつずれる。たがいに邪魔にならないように、すべての葉がそれぞれの位置を決めるとしたら、どうすればいいか。自然の樹木はその課題に対して、まさに「自然に」解答を与えている。
樹林のなかの各種の樹林についても、それは同じである。一種類の樹種で構成される林もあるが、いくつかの種を組み合わせて植えると、育ちがいいといわれる。たがいに補い合う面が現れるからであろう。新緑のパッチワークのなかに、私はその法則を見ているのに違いない。それが美しく感じられるのである。数字でいうなら、それが多次元空間の安定平衡点だからである。翻って都会を見ると、話がまったく違う。箱根の山から横浜に来ると、それがまことによくわかる。箱根に行く前はラオスにいた。田舎を回って、毎日虫を捕っていた。だから感覚は田舎者になっている。高層ホテルの上から、下の世界を見ると、ほとんど目が回る。美しいというより、目まいがするというしかない。刺激だけがむやみに強い。駅の構内を歩くと、西も東もわからない。歩行者にぶつからないように歩くだけで、精一杯である。これをはたして生活と呼んでいいか。