「ベーカリー・金林達郎 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

 

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「ベーカリー・金林達郎 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

パンと日本人という巨大で厄介な命題

金林達郎さんは一九五〇年(昭和ニ十五)、つまり朝鮮戦争の起こった年の生まれで、私より十歳下の人だが、戦後における幼少時代のパンにまつわる記憶は、どうやら似たり寄ったりのようだった。
まずは食パンとコッペパンで、その他にあったのはアンパン、ジャムパン程度だった。コッペパンの“コッペ”は、「切った」の意のフランス語coupe[クーペ]の訛りだと言われ、イギリス系の食パンを小型にし棒状に整形した紡鍾形のパンで、これが私たちの時代の給食にも出た。それでは長方形の箱形の型を使って焼いたパンが、なぜ食パンと呼ばれるのか。食べないパンはあり得ないのだが......と辞書を引くと「本食のパンの略。主食となる四角いパン。西洋料理の“もと”となる食べ物のパンという意味で、イギリス系の白パンをさしたもの」て出ていた。
「日本のパン食というのは、ベースはアメリカの農業政策ですからね。余剰の小麦をどうしよう。それには戦争で占領した日本の子供にパンを食わせろと。そういうところから生まれたのが、パンと脱脂粉乳の組合せによる学校給食なんです」
その金林さんの言葉は、私の思い出ともぴったりかさなっている。戦後の日本人が白米を食するところに復興するまでは、各家庭にパン食が広まり、これが“代用食”と呼ばれていた。
したがって、東京生まれで目黒に育った金林さんの目からも、近所にあったパン屋というのは、食パンとコッペパンが主で、それにマーガリンや粒々の入った妙に赤いジャム、あるいはピーナッツバターをうすめたようなやつを塗ったものを売っている程度の店だった。
金林さんは、目黒区の祐天寺に生まれ育ち、大学受験の浪人中に車の免許をとった。単に車の運転がしたかったという理由だったが、運転ができたことが「メグロキムラヤ」において車でパンを配送するアルバイトをすることにつながったわけで、これが金林さんとパンの道との初遭遇ということになるのである。
そこで二年ほど働くうち、気づいたときはパンの製造を手伝うようになった......というのが、その頃をふり返っての金林さんの記憶であるらしい。パンの配送とパンの製造とのあいだには、かなりの距離があるような気がするが、そこをすいと越えたあたり、金林さんとパンの宿命的出会いのようなものを感じさせられる。
やがて、「メグロキムラヤ」が倒産し、金林さんはそこの専務だった人が別のパン屋「メグロバーゼル」をはじめるさいにさそわれて入社し、日本製粉の横浜工場で二か月の研修を受け、パン職人になる道をえらんだ。そのあと浅草橋の「ドメール」につとめたが、この「ドメール」における時間が、金林さんのパン職人てしてのベースをつくった。
「ドメール」の社長はきわめて教育熱心な人で、その環境の中で講習会に参加するうち、製パン理論というものをしっかりと学んだ。やがて勉強会で、「ドンク」の仁瓶利夫氏、桜新町でパン屋をしている明石克彦と出会った。そして、これまで考えたことのなかった、パンがどういう条件のもとに膨らむのか、おいしくなるのかなど、パンという存在の根本に触れてショックを受けたという。
仁瓶氏はフランスパンの、明石氏はドイツパンの権威であり、同じ土俵ではとうてい太刀打ちできぬと、金林さんは酒種、ホップなどの天然酵母の勉強をはじめた、やがてその分野をある程度きわめて、ようやく両者と対等の話ができるようになったと、金林さんは当時をふり返る。
そんな金林さんに一九九四年、恵比寿でオープンするジョエル・ロブションによるレストラン「タイユバンロブション」から声がかかった、そこでも天然酵母でつくれるというので、「ドメール」から 「タイユバンロブション」に移った。その頃、日本のパン業界はようやく、アンパン、クリームパンがメインだった時代から、フランス料理に合うパンづくりに移行していた。そこで、金林さんはフランス研修を体験した。
金林さんは、辻調理師学校の講師を数回つとめつつ二年ほど働いていたが、そのあとは独立してパン屋を始めようと思っていたそうだ。そんなところへ帝国ホテルとの縁を決める話が舞い込んだ。

〈対談部分中略〉

金林によれば、帝国ホテルの地下にあるベーカリーの規模はおそらく世界一だろうという。たしかに、フランスパン、ドイツパン、そしてその他のパンを焼く巨大なオーブンから、おびただしい量のパンが次々と焼かれて出てくる光景が、金林さんの言葉に説得力を与えているようだった。その規模をベースにした技術的能力と、金林さんをはじめとするスタッフのセンス、思考、対応力、パンという文化に対するロマンなどの組合せが、帝国ホテルのパンを生み出しつづけている。
花とパンはテーブルにある風景、メニューに書かれないパンという存在、パンの消費が多いときはテーブルに会話がないとき、日本人にとってパンはいまだに代用食......そういった気分について語る金林さんは、ちょっと寂しそうな表情だ。また、オーブンから出たパンの歌がとまったところというおいしい食べごろについて、お客の注文に応えるパンをつくったときのえぴそーどについて、心強い同志といえるスタッフについて語る金林さんの表情は、職人の自信と覚悟と夢をあらわしているようであり、根づきにくいこの国の土壌に舞い降りて、とまどいを見せつつ焼き上がって膨らんだパンの気持に、その思いがかさねられるようでもあった。
どこまでいっても絞りきれぬ、日本のパン文化の方向という厄介なテーマを、金林さんはもしかしたら宙に浮かべて打ちながめ、特権的な悦楽にひたっているのではなかろうかという気もした。何しろ、ホテルと日本人、パンと日本人というむすびつきは、そう簡単に正解の出るはずのない、とても巨大な命題にちがいないのである。