「占いとの付き合い - 河野多恵子」文春文庫 巻頭随筆3 から

 

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「占いとの付き合い - 河野多恵子」文春文庫 巻頭随筆3 から

昨今は非情な占いブームである。なかでも「天中殺」というのが話題を呼んでいる。そのことを書いたベストセラーの本を私もたまたま人からあてがわれてもっているが、まだそれを使って天中殺を割り出したことはない。天中殺というのは、四柱推命の空亡にあたるもので、ずっと以前にそのほうの人から既に自分の空亡を聞いてあるからである。それによると、ショートでいえば、十年と経たぬうちに二年間の空亡に入る。詳しくは書かない。ひそかにその二年の空亡如何[いかん]を経験してみたいからである。むしろ楽しみなくらいで、別に気にはならない。
私はまだ占いで自分の詳しい死期を聞いたことがないが、たとえあと数年と言われても、最後の日までにどんな日々を具体的に経験してゆくのかと、結構楽しみでもありそうな気がする。
数年前本誌で、柴田錬三郎さん、星新一さん、イタリア文学者の千種堅さん、そして私、占い好きばかりの座談会があった。その時、占星術にお詳しい柴田さんがご自分の占星図を披露された。ところが、その図には、死期の部分が空白だった。恐ろしいから調べないのだとおっしゃった。私は今書いたようなことを述べた。「河野さんは度胸があるよ」とおっしゃっる柴田さんを、見かけによらず度胸がおありでないなと、私は思った。柴田さんが亡くなられたのは、それから一年か一年半ほどにしかならないうちのことである。思えばあのとき柴田さんは死期を占いずみだったのではないだろうか。それを無視したくて......いや、柴田さんのことであるから周囲に心配をさせたくなくて、死期は占っていらっしゃらないことにしておられたのかもしれない。
世の中には、死期に限らず未来を占ってもらうのは恐ろしいと敬遠一方の人がいる。信用しなくて、占[み]てもらわない人もある。占い中毒みたいな人もいる。生まれの星によっても、そのように分れる傾向が多少あるようである。例えば、先の座談会の四人の出席者でみても、そのうち三人までが九星では同じ星だった。その星生まれなどの運勢は占いの予見の的中率が高いようで、おのずから信じるようになるのかもしれない。それから、占い好きには、起伏の多い仕事や環境にある人がどうしても多い。又、人が占いに関心を持つのは、良いときよりも悪い時であるほうが当然多くなる。私の場合も、最逆境の時に占いとの付き合いが始まっている。占てもらった人の殆[ほとん]ど全部から、あと数年は駄目と言われて、気落ちと共に聊[いささ]かの慰めもあったものだ。そうして付き合っているうちに良い予見にも接したし、それが当たるものだから、一層関心をもち、自分でも少々あれこれとかじ[難漢字]るようになった。「天中殺」が悪い運期を割り出すものとすれば、産業の高度成長期とかが去って経済生活の多難になってきた昨今、そのブームには頷[うなず]ける。
占いの類は当たるものなのかと、知人に訊かれることがある。一度占てもらおうかと思うのだけれど、近づいてよいものなのかどうかと訊く人もある。そんな時、私はちょっと相手の生年月日を確める。例えば、極めて素直、正直な星の生まれの人ならば、安心して焚きつける。そういう性格の人は意外にまた合理性に富む人が多く、いくら焚きつけても、占いなとば不合理に見えるのか、結局信じないようである。
私が本気で焚きつけるのは、占いとも付き合うならば、その人の人生がよりよいものになるだろうと察しられる人の場合である。人生で直接幸運をより多くすることができ、不運を減らせるだろうという意味ではない。幸運の喜びは大きく感じ、不運にもそれなりの趣きを見出せるようになるだろうという意味である。世の中には、占い法や占い師でいかがわしいものが夥[おびただ]しくあるらしいし、占い上の手落ちもあり得るだろうが、私はもともと占いというものは、大分的中するものだと思っている。そして、占いと付き合う楽しみには、良い予見の的中がある。が、悪い予見と戦う楽しみもある。その結果、勝てば勿論楽しく、負ければ当たったと、新たに来るべき幸運期、戦うべき悪運期を待ちかまえる楽しみもある。そうして、私は占い好きとはいえ、のべつ占いと付き合っているわけでもない。悪いことが起きてから調べてみて、最悪月だったと知る場合すらある。道理でと、思わず湧く苦笑 - これが又なかなかいいものだし、その途端に、とにかく風呂に入って今夜はぐっすり眠って、明日ゆっくり対策を考えようという気になるから不思議である。
勿論、占いのはずれる場合も少なくない。占いが当てにならぬものだからではないと、私は思っている。ある数種の占いの少くとも体系からすれば決してでたらめなものではないのだが、人生には更にそれを超えた奇蹟が生じることがあるのだ。案外よく起こるのであって、だがそれはやっぱり奇蹟と呼ぶしかないものとして、私には感じられる。奇蹟ばかりは、占いにも予見できないのである。