「人はどんな風に死んでいくのか?(抜書) - 大津秀一」死ぬときに人はどうなる10の質問 から

 

「人はどんな風に死んでいくのか?(抜書) - 大津秀一」死ぬときに人はどうなる10の質問 から

Ⅰ 余命週単位

残りの余命が数週間となったときである。
まずはどういう症状が見られるかだが、この時期に認められるのは、全身倦怠感つまりだるさである。
だるさというと、普通の疲労感を考えてしまうかもしれないが、この倦怠感はそれとは感覚が異なるようだ。私もその立場になったことがないので正確にはわからない。しかし「普通のだるさとは全然違う」と言う声はよく聞かれる。この全身倦怠感はなんとも形容しがたい辛さがあるようだ。
ステロイドは全身倦怠感に比較的よく効くのだが、それも余命が一、二週間以内になると格段に効きが悪くなる。そうなると全身倦怠感に効き良い薬があまりないので、非常に全身倦怠感が辛い場合は、意識を下げる、つまり鎮静するしかないこともある。
また、むくみがひどくなったりするのもこの時期だ。個人差はあるが、点滴を一日一リットル以上続けるとそれが顕著になり得る。点滴量を適宜減らす心構えが重要となる。
食欲不振も強くなるが、余命が週単位以下の場合、どんなに栄養をとっても(とらせても)状態に改善はないし、延命効果も(おそらく)ほとんどない。
週単位は終末期医療の一つのターニングポイントとも言え、ここから治る病気の人にするような医療を継続すると逆に患者さんが苦しくなったり、余命を短縮したりすることも少なくない。死期が迫った患者さんに対してどれだけの水分量や栄養量が必要なのかはまだ確たる結論が出ていないが、通常量よりもはるかに少ない量で維持できることが示唆されている。
私も患者・家族の強い希望で水分200ミリリットル・カロリー35カロリー/日で経過をみたことがあるが、その方は苦痛なく100日程度穏やかに生活された。それなのにも関わらず、臨床的には脱水も存在せず、やせも進行しなかった。これは驚くべきことのように思えるが、終末期医療の経験が豊富な医療者からは驚くに値しない「時に見かける」ものである。またこれは一般の方のみならず医療者にも誤解があるのだが、この状態はいわゆる「飢餓」状態ではなく、栄養を入れたからといって全身状態の改善は望めない。栄養を入れてももはや機能や生命の長さを改善できない状態であり、これを悪液質と呼ぶ。

 

次に、日常の立ち居振る舞いの障害について述べる。
私が見ていて、この時期一番患者さんにとって辛いのが「歩けなくなること」である。考えてみれはわかるが、歩けなくなると、自力で移動できなくなることの苦痛は大きい。そしてさらに辛いことに、この歩けなくなること、これを改善する有効な医療はない。
辛いことだが、歩けなくなったら、もう一度歩けるようになる可能性は低いのだ。そして移動が困難になると、「自律存在の揺らぎ」を患者は自覚し、つまり自分のことが自分で出来なくなってしまったことを自覚し、スピリチュアルペインにつながることもしばしばである。スピリチュアルペインとは、迫る死によって自らの存在が脅かされるときに出てくる根源的な問い、例えば「私の人生はいったい何だったのか」「なぜ私は死ななければいけないのか」などに答えられないことに伴う苦痛である。衰弱が進行し、急に今までできていたことができなくなったとき、人は無価値感にさいなまれる。こんな状態で生きている意味はあるのかと問わずにはいられない。そうすると苦しくなる。
このようなときに、どのように声をかけたら良いのであろうか。誰も「歩けるようにはもうならない」ことを患者に伝えられるものではない。また、それが本当に良いことなのかはわからない。なので、医療者から見て「ああ、これはもう歩くことは無理だろうな」とは思っても、それは言いにくいし、言うのが一概に正しいとも言えない。生きてゆくために必要な希望が完全に失われてしまうかもしれないからだ。なので、歩けるようになると良いですね、と言わざるを得ないことも多い。しかし慰めは時に、理想と現実とのギャップに向き合わざるを得ない患者にとって気休めにしかならないこともあるし、「もう歩くのは一般的に困難である」と伝えざるを得ない場合もある。
いずれにせよ、このように人はいつか歩けなくなり、そしてそれを他人がそう伝えるのは困難である。なので、覚悟してくれ、等とはとても言えないが、死が近づけば現実として歩けなくなることを理解してもらいたいのだ。だからこそ、人は動けるうちに、いろいろなことをしておかなければいけないと思うのである。
けれども週単位の段においても、頑張れ、歩けるようにならなくちゃと叱咤激励する家族・医療者も少なくなく、「希望」ということについて考えさせられる。実現不可能なことを可能だと表現し、あるいはそれに向かうように励ますより、上手に現状を受け入れるように動くのも大切な仕事なのだと思えてならない。本当に難しいことである。さて、歩けなくなればトイレへ行くのも困難になり、ポータブルトイレに移るのも難しくなり、最後はベッドの上で排泄をしなければならなくなることも少なくない。余命が週単位以下になってくると、肛門弛緩といって肛門が緩み便失禁をしてしまうこともある。これも特にきれい好きの人にとっては辛い症状と言え、大きな精神的打撃を受けることもある。また排尿も体力低下からなかなか難しくなることもある。トイレに行くのが間に合わず失禁してしまうこともある。逆に尿意を頻繁に催す一方でトイレに行っても空ぶりに終わり、動くのがだるいにも関わらずトイレへ何度も何度も行かなければならなくなるという頻尿の問題が起こる場合もある。いずれの場合も、尿道に管を挿入してそこから尿を出すという尿道カテーテルの挿入が必要となることがある。いわゆる「おしっこの管」というものである。
尿失禁や便失禁は患者にとって非常に精神的苦痛となるものだ。しかし、全身状態の悪化に伴う機能低下によるものなので改善が難しいことも多い。諦めざるを得ないこともしばしばなのである。
さらに、食欲低下が進んで食事をほとんど食べなくなり摂取量が極端に落ちたり、また嚥下[えんげ]困難といって食物や水分を飲み込むのが難しくなったりも出現してくる。前述したように、このときに食事を強いたり、あるいは点滴や鼻から入れた管や胃ろうから強制栄養をしたりしても状態の改善には役立たない。また、嚥下困難は誤嚥といって、食物を気管・肺に間違って飲み込んでしまうことによる、誤嚥性肺炎を起こしたりもする。なお嚥下困難なさらに進行すると唾液等でも誤嚥をしてしまうため、食事を止めても誤嚥を予防できない。
またしゃべりにくい(声帯のやせに伴う声かすれ)、耳鳴りがする(耳管の変化)、口の渇きが一段と強くなる(これも点滴では改善しない)など、さまざまな苦痛症状が出現してくることがある。
残念ながらこれらに挙げた機能低下の改善には、緩和医療はあまり有効ではない。死期が迫って全身状態が悪化したことによる機能の低下を改善するすべはないのである。これらの改善不能な症状が出現してきてそれを何とかすることは難しいことを覚悟しなければならない。
私は毎日そのような患者さんの苦難に直面している。だからこそ、出来ることは早めに、これを強調しておく。実際余命週単位の頃が、やりたいことが出来るかもしれない最後のチャンスと言えるかもしれない。もちろんそれ以前にやるべきことをやっておいた方が良いのは言うまでもない。
このように死期が週単位となると、移動が困難になり、ベッド上の生活を余儀なくされる。なので、もう一度繰り返すが、それより前にしておくべきことはしておいてほしいと願うのだ。