「エスカレーターのマナー - 鷲田清一」中公文庫 考えるマナー から

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エスカレーターのマナー - 鷲田清一」中公文庫 考えるマナー から

東京は左、大阪は右、これ、駅のエスカレーターで立つべき位置である。急ぐ人は、東京では右、大阪では左を駆け上がる。
もっとややこしいのは、週末のJR京都駅。じつは京都では、おなじ「上方」でも大阪とは違い、左に立つのが正しい。京都駅では、京都人のほかに、東方から来た観光客て、週末に京都で遊ぶ大阪人とが入り交じり、左や右や、ややこしいことこのうえない。
左と右、いったいどちらが正しいのか。「風」が違うとしたところで、京都が左である以上、東が左、西が右とは言えない。いや、そもそも左か右、どちらが理に適っているかなど、だれかが決しうるものではない。
さんざ頭をひねった。考えに考えた。その結果見つけたのは、こういう理屈である。
そもそもエスカレーターは何のために設置されたのか。じっとしているだけで勝手に昇れるようにか、それとも、歩くより速く昇れるようにか。
東京と京都の人は、自分が歩かなくても勝手に自分を上に運んでくれる装置としてエスカレーターをとらえるから、「普通」は左側に位置し、急いでエスカレーターを駆け上る人は「異例」として右側にくる。急ぐ人に道を空けてあげるのである。大阪の人は、より速く駆け上るための装置としてエスカレーターをとらえるから、左が「普通」で、じっと立っていたい「異例」の者は右に寄る。わざわざじっとしていたい人のために右側を空けておいてあげるのである。
いずれも「正しい者が左にくる」という点で変わりはない。何を正しいと考えるかで、違いが生まれるかにすぎない。
少しでも速く歩こうと「動く歩道」を考えだしたのも、「信号待ち、あと何秒」を横断歩道に表示することを思いついたのも、さらには短い昼休み、主食のうどんとおかずの油揚げを一息に食べるために「きつねうどん」を考案したのも、大阪人。無駄を省くというのが、大阪人の「普通」、つまりは行動の基準であるらしい。
ここで大阪人の名誉のために言っておけば、大阪人は無駄金、死に金を使うことを嫌うが、ここというところでは、つまり町にとってほんとうに大事なことには、金を惜しまない。古くは橋や水路、近くは公会堂や図書館など、大阪の公共施設の多くが民間の寄付で造られてきたことを忘れてはならない。じつに気前がいいのだ。
「ひとってみんな、正しいと思っていることが違うんですね」。これ、大阪での延べ数千人のボランティアによる大事業のあと、参加した一人の女子高生がしみじみと私に語ってくれたことばである。