「無趣味のマナー - 高橋秀実」中公文庫 考えるマナー から

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「無趣味のマナー - 高橋秀実」中公文庫 考えるマナー から

ことさら自慢するようなことではないが、私は無趣味である。趣味を持たねばと、これまで「蕎麦打ち」「ヨガ」「鉄道」「ボウリング」、さらには様々なコレクションづくりなどを試してみたのだが、何ひとつ続かず、というか続けようという気がまったく起こらず、これはもう本物の無趣味だといえる。聞くところによると、定年を迎え「趣味がない」と不安に思う人も多いらしいが、無趣味でも大丈夫。無趣味は趣味というべきか。取り立てて何もせずとも趣味は持てるのではないか、と私は考えているのである。
そもそも「趣味」とは、明治時代に英語を翻訳するために使われた言葉で、その元の英語とは「taste」である。つまり「味わい」。何かに興じる「hobby(娯楽)」と違って、味覚のようなものなのだ。
当時の文献を読んでみると、早稲田大学創立者大隈重信の趣味は「膝枕」だった。正確には「酔ふては枕す美人の膝」(『趣味』明治45年7月号彩雲閣)。要するに、ほろ酔い気分で膝枕を味わうことも趣味なのである。
実際、膝枕は味わい甲斐がある。あの弾力性とぬくもりは他では味わえない。夫婦であれば円満の証し。円満そのものを味わうようなもので、これは極上の趣味といってよいだろう。
日常的なことでも、それを行為として吟味する。吟味のポイントを明確にすることが、すなわち趣味なのである。
例えば、「テレビを見る」。無趣味の人が日常的になる行為で、読売新聞の『人生案内』などでも「ぐうたら夫」の象徴としてよく非難されているが、あらためて考えてみると、私たちはただ的見ているわけではない。
「テレビを眺めている」のである。川の流れを眺めているのと同じで、あえていうなら「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。つまり、テレビを眺めながら世の無常を味わっているのだ。家事などもそうだろう。掃除は「捨てる」ことを味わい、洗濯物を干したり畳む際には隅を「揃える」ことを味わっていたりする。実は日常こそが趣味三昧なのだ。
そんなことはつまらない、と思われるかもしれないが、つまらなさを味わうのも趣味である。大体、いわゆる「趣味」に励んでいる人たちも楽しくてやっているわけではない。習い事にしてもできないことを味わっており、できてしまえば終わりである。ジョギングする人も苦しみを味わっている。何もせずにゴロゴロしていると、無為ゆえに生きていることそのものを味わえたりするのだ。
私はよく溜め息をつくが、これも退屈を味わう趣味である。「ふ-」と息を吐いて、最後に「ふっ」と止めると、腹式呼吸にもなるわけで、これは健康法としても味わい深い。