「ぽつんと「偏奇館跡」 - 井上明久」ベスト・エッセイ2005 から

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「ぽつんと「偏奇館跡」 - 井上明久」ベスト・エッセイ2005 から

町を歩くのが好きで、年中、どこかを歩いている。ひとりでもいいし、気の合った仲間ともいい。けれど、東京を歩くのは楽しいとばかりは言えないのがつらい。というのも、東京の町を歩くと、一年前、二年前にはあったものが忽然と消え、その跡には以前とは似ても似つかぬものが傲然[ごうぜん]と出現していることに、ほとんど日常的に出会うからである。
ああ、これは素敵な建物だな、この一画は何て素晴らしい風景なんだろ、その時そう思っても、今度来る時にそうした建物や風景がそのまま残されているかどうか、甚だ心もとないのだ。美しいものがいつか殺風景なものに転じている。趣あるものがいつか無機的なものに変わっている。それが東京という町の有りようだ。だから、東京を歩く者は一期一会の覚悟を持って歩かねばならない。
もっとも、こんなことは東京歩きの偉大なる先人・永井荷風が、『日和下駄』(大正四年)の中でとっくに言っている。「日々[にちにち]昔ながらの名所古蹟[こせき]を破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無情悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。(略)今日看[み]て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹もこの次再び来る時には必[かならず]貸家か製造場になっているに違いないと思えば、それほど由緒のない建築もまたはそれほど年経ぬ樹木とても何とはなく奥床[おくゆか]しくまた悲しく打[うち]仰がれるのである。」
美しいものがいともあっさりと消えていく。残したいものがいとも無残に壊されていく。そうしたあってほしくないことが平然とあるのが東京という町であり、そこに東京を歩くものの悲哀がある。けれどもまた、そうであるが故に荷風の言う「寂しい詩趣」を感じることも事実である。パリやヴェネツィアなどといった町にはない、こんな皮肉な逆説的な感情が起こるのが東京という町なのだ。

先日、久しぶりに「偏奇館」跡を訪ねた。荷風七十九年の生涯で最も長い二十五年間をすごした偏奇館は、かつての麻布市兵衛町一丁目(現在の六本木一丁目)にあった。ペンキ塗り二階建て洋館の建物は昭和二十年三月の空襲で焼失したが、数年前までならあたりの地形からある程度は荷風の時代を偲ぶことができた。
偏奇館があったのは御組坂と道源寺坂の間にはさまれた切り立った崖[がけ]の上で、ある時期まではヴィラ・ヴィクトリアというマンションの玄関脇に「偏奇館跡」の立て札があり、その周囲が路地と坂道とが複雑に入り組んだ迷路的空間であることは荷風の頃とさして変わってなく、荷風が好んだ“隠棲[いんせい]”的雰囲気はまだ濃厚に漂っていた。
ところが、かつて谷町と呼ばれた道源寺坂の北側一帯がアークヒルズとして再開発された後、今度はある時から道源寺坂の南側一帯のかつての市兵衛町が次なる再開発地区となり、そこに高層タワーが並ぶ泉ガーデンが出現した。
結果、荷風の時代と共有していた迷路的空間の構成要素だった路地も、坂道も、階段もあっけらかんと姿を消した。かろうじて小さな木立の中に、目立たね形で「偏奇館跡」の石碑がぽつんと置かれているが、あたりの茫漠[ぼうばく]たる空間の中ではもはや往時の跡を偲ぶ術[すべ]は喪[うしな]われてしまったのである。
ただ、ひとつだけ文字通りに有り難いことに、道源寺とその脇の道源寺坂と寺の門前の榎[えのき]の古木、それだけが巨大な山塊のようなアークヒルズと泉ガーデンの谷間にひっそりと生き残っていて、日毎夜毎に荷風が歩いたその道をたどってほのかにその頃を味わうことができるのだ。そして、たったそれだけしか残されていないことを深く愁いながら、それと同時に、そうであるからこそ今この目の前にある風景を、よりしっかりと見つめなければいけないという、愛[いと]おしさのようなものが湧いてくる。
喪失がもたらす悲嘆と恋着。そんな二つながらの想いを抱きつつ、東京の町を歩いている。そして有り難いことに、東京には見るべきものがまだまだいっぱいある。