(巻三十)荷船にもなびく幟や小網河岸(永井荷風)

f:id:nprtheeconomistworld:20210824073318j:plain

(巻三十)荷船にもなびく幟や小網河岸(永井荷風)

8月23日月曜日

処暑だそうだ。

9時ころ、郵便局に息子への特定記録郵便を出しに行こうとしていたら雷がゴロゴロと響いてきた。窓から見ているとすぐに風が木を揺すり始め、雨粒が道路に弾け、幾筋もの稲妻が前のマンションの上を走った。そのうちに風向きが変わり、小降りになった。ほんの20分ほどのことだった。

雷過ぎて猫やはらくなりにけり(はやし碧)

10時前に郵便局へ行き任務完了。料金は254円だとのことで持参した昭和の記念切手を組み合わせて255円貼り付けた。ほぼピッタリで気持ちがよい。隣の銀行業務の窓口ではばあ様がカードで下ろしたあとの通帳への記帳ができず教えてもらっていた。郵便局への途中で救急搬送の様子を遠目に見た。建物から担送されてきた患者には簡易な酸素マスクがされているようだ。流行り病か?救急隊員の方は普通の制服で呼吸マスクまでだ。帰りにトンボを見た。トンボはいい。静止するのがいい。

肩に来て人懐しや赤蜻蛉(夏目漱石)

夕方の散歩。南に歩いたが南が一番詰まらない。白鳥には意外と路地が少ない。昭和の家の玄関先の鉢植えがいいのだ。路地は亀有二丁目に限る。

葛飾区水打つ路地の残りけり(拙句)

本日は四千五百歩で階段は3回でした。

願い事-叶えてください。もういいや。苦しめずに手早くお願いします。

> 「肩に来た赤蜻蛉 - 山田風太郎」角川文庫 死言状 から

>

> 別に目新しい説でもあるまいが、漱石についての雑感を二つ三つ。

> 漱石の小説に背信をテーマとする恋愛小説が多いので、漱石の若いころ、何かそういう体験があったのではないか、という想像から、その核となる漱石ベアトリーチェはだれであったのか、という探索にさまざまな説のあることは人のよく知るところであった。

> あるいはあによめ説、あるいは大塚楠緒子説、あるいは「道草」にお縫さんとして出て来る塩原れん説、はては鰹節屋のおかみさん説。......その各説のそれぞれの牽強付会[けんきようふかい]ぶりを見て、私はこれを漱石邪馬台国と呼んでいる。

> 私自身は、漱石にそんな女性はなかった、という考えである。邪馬台国はなかった、のである。

> ただ漱石は、背信ということに、他人に対しても自分に対しても異常に敏感で、それについて幼少時代から傷つくことが多かったのではないか。何かあったとしたら、それは男性同士の間の問題ではなかったか。それを小説のテーマとして書く場合、恋愛にからませた方が面白いので、小説のテクニック上、漱石はその心理的葛藤を女性を対象とした物語に転化したのではないか、と考える。

> それより私は、モラルの上で漱石の潔癖性のほうがふしぎである。

> 彼の兄や姉を見ても、その遺伝、その環境、どうみてもむしろだらしない家庭なのに、彼だけが - 「硝子戸の中」の喜いちゃんから太田南畝の写本を買う話を読んでもわかるように - 幼少時から異常に潔癖であったようだ。人間の才能はともかく、道徳感など環境か教育によると考えていたが、これも先天的 - 遺伝というより、特定の個人だけの素質によるということもあるらしい。

> ただ、面白いことは、昭和三年版の「漱石全集」の月報には、まだ漱石生前の知人や朋輩が少なからず筆をとっているが、それが神格化どころか、あれがなんであんな大文豪と呼ばれる存在になったのは意外千万、といった感触のものが多いことだ。おそらく現実というのは、そういうものなのだろう。

> それはともかく、この高潔な漱石にいつもくらべられるのは、あまりに俗っぽい鏡子夫人である。しかし私は、夫人悪妻説にも首をかしげる

> 夫人悪妻説は、漱石を神格化しようとする弟子たちから唱えられたのである。実際漱石とその弟子たちの間は、ホモに似た心情も揺曳[ようえい]しているのではないかと思われるほどだ。こんな師弟関係は明治ならではのものだろうと思っていたら、長谷川如是閑が、「あれは明治でも珍しい」といっているので、なるほどと思った。

> で、弟子たちは毎週木曜の面会日を待ちかねたようにおしかけたのだが、そこの奥さんが悪妻でみなが集まるものだろうか。集まって、飯を食う、金を借りる、泊ってゆく。奥さんが悪妻で、そんなことがあり得るだろうか。

> 漱石は、夫人の鈍感と大ざっぱな人柄に、たしかにカンシャクを起すこともしばしばあったが、そういう夫人の人柄にかえって安らぎをおぼえる半面もあったのではないか。何はともあれ漱石は、夫人との間に七人もの子供をつくっているのである。

> とはいうものの、夫人の通俗ぶりには、興ざめを禁じ得ないことはたしかだ。「思い出す事など」や漱石の書簡などに出て来る出来事が、夫人の「思い出」になると、同じ事柄でも人によってこうも印象が変るのか、と嘆息せざろう得ないほど俗化して描かれる。

> いわゆる修善寺の大患のとき、日本国中からの見舞客や手紙を受けて漱石は感謝にみちあふれ、「肩に来て人懐しや赤蜻蛉」という心境になった。

> いま、こんな無私の敬愛を受ける作家、あるいはどんな職業にしろ、そんな人物があるだろうか、と私は考えていた。

> ところが、森田草平によると、実はこれも鏡子夫人が全国のありとあらゆる知人に「ソウセキキトク」の電報を打ちまくった結果なのだそうである。肩に来た赤蜻蛉は自然にとまったのではなく、釣り竿でつかまえたものであったのだ。- おそらく現実というものは、これまたこういうものなのだろう。

> もっとも漱石自身は、病院で「思い出す事など」を書いた時点では、右のことを知らなかったにちがいない。しかし、あとでは当然知ったのではあるまいか。

> 草平が、大患以後、漱石の人格が新境地に入ったという説に、そんなはずはない、小説の上でも、最後まで則天去私の徴候など認められない、といっているのに私は同感する。