「残肴の処理 - 北大路魯山人」日本の名随筆26肴 から

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「残肴の処理 - 北大路魯山人」日本の名随筆26肴 から

料理を出して、お客のところから残ってきたものを、他ではどんなふうに始末しているか私は知らない。私ならその残肴を、お客が全然手をつけなかったもの、つけてもまだたくさん残っているもの、刺身は刺身、焼魚は焼魚というふうに整理して区分けし、これを生かすことを考える。こういうことは、以前からしばしばみんなに話はしたものの、億劫がって実現されたためしがなかった。
昔の料理人というのは、安っぽい人間が実に多くて、残肴の処理などといえば、いかにもケチな話のように聞き、真剣には耳を貸さないようであった。
米一粒でさえ用を完[まつと]うしないで、捨て去ってしまうのはもったいない。雀にやるとか、魚にやるとか、糊をこしらえるとか、工夫するのも料理人の心掛くべきことだと思う。
こんなことをいうのは、人間が古いと感ずるらしい。一椀の飯でも意味なく捨て去ってしまうことは許されない。用あるものは、ことごとくその用を使い果たすところに、天命があるのだと思う。
昨夜も遅くまで来客があった。当然残肴が出たわけだが、今朝ひょいと芥溜[ごみため]をのぞくと、堀川牛蒡その他がそっくりそのまま捨ててある。せっかく苦心してこしらえた高級野菜である。たいていの魚よりはよほど珍しく、珍重に価するうまい京都牛蒡が捨て去られてしまっている。女中に注意深い者でもいれば、こんなことはしなかったであろうに。料理人たるもの、いかに若いとはいえ、このようなことにむ頓着であってはならない。
堀川牛蒡というものは、茶味があり雅味がある。その上、口の中にカスが残らないという特徴をもっている。見掛けが素人好みの美しさでないために、お客によっては、どんなにうまいものか知らないで、手をつけない場合もあろう。一たん客席に出されたものとは言い条、まるきり手をつけないまんま捨て去ったりしないで、後から賞味するくらいの道楽気があってほしいものだ。
残肴には見るに忍びないほど傷められてくるものもあるが、多数の来客のある忙しい日になると、全然手のつかないものも多くなってくる。
もし料理人に心があったら、たとえ牛蒡の一片にしても、うまく処理して、全く別の珍味として、食べることを考えるべきだろう。残らず捨て去ってしまったり、珍味だということをなんにも知らない輩に、むしゃむしゃ食べさせてしまうのはもったいない限りである。甘鯛の骨一つにしても、犬にやるとか、残飯を干飯にするとか、方法はいくらもあろう。

料理人はせっかく手掛けたものが充分食べられなかったり、手がつけらなかったりした場合は、もう一ぺんこれを生かして、自分達の味覚研究として、試食するくらいの気転がなくてはならない。経済的にいっても、もとよりの話であるが、料理人は料理で身すぎんする人間だ。いい材料を使って、手塩にかけたものが客の腹加減から用を足さないで戻ってきた場合、またもう一度これを生かす工夫に心して、自分たちの同僚のもので、試食研修してみるくらいの興味を持たなくては失格である。料理人は料理で僅少な金を得る生活よりも、ひたすら料理に興味を持ち続けることの方が幸福ではなかろうか。
繁忙の時でなければ残肴の姿は見えない。残肴が姿を出すような忙しい時は、料理人は疲労した上、残肴の整理など大変だと事務的に考えがちのものだが、生かさずにはおれないという生一本の性根がほしい。好きの道だからこそ、ここが大切なのだ。心の底から料理が好きという人間なら、これくらいのことは良識、良心の両杖で実行できるものである。
残肴の活用は私のいささか得意とするところであるためだろう、くどくどいうが、諸君の中には家庭をもった人もいる。残肴の揚げものの沙魚[はぜ]二、三片でもいい、家に持って帰れば、家族がどんなに喜ぶか知れない。甘鯛の大きな照焼の残ったものなど、菜っ葉や豆腐と一緒に煮て食べるといったように、一家を楽園にする道もある。
なるほどと得心がゆけば、常に残肴の係などの責任者をつくり、真剣に与えられた材料をなんとか生かして欲しい。ものの働きがあるうちは充分働かせ、その効用をせいぜい能率的にこの世に残してゆく。料理人に限らず、このことは人生を処する人間の心掛けでなくてはならないと思う。また、こういうところから、料理の発明も発見も生ずるのである。