「四国遍路はウドンで終る(一部) - 丸谷才一」文春文庫 食通知つたかぶり から

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「四国遍路はウドンで終る(一部) - 丸谷才一」文春文庫 食通知つたかぶり から

戦後二大ネーミングといふものがある。サツポロ・ラーメンと讃岐うどんがそれで、あれがもし、北海道ラーメンと高松うどんだったら、今日のやうに天下を制圧することは不可能であつたらう。ラーメンの片仮名に合せてサツポロとこれも片仮名(この場合、サツポロ・ビールが微妙に作用してゐる)で行つたからよかつたし、平安初期以来、讃岐米がうまいという評判があるせいで、それなら、うどんもまたいいにちがひないと考へてしまふわけなのだ。
さて、今の日本に八千軒あるといふ讃岐うどんの原点(といふ言葉をわたしは好まないが)を究めようとすれば、残念ながら高松市内のうどん屋へ行つたつて駄目である。高松で聞いたところでは、市中のうどん屋はみな関西ふうになつてゐる、あれでは本式の味が判らないといふのだ。そこで、讃岐うどんの原点を求めて、まづ、琴平は東吉野の長田うどんといふ、目茶苦茶に値段の安い店へゆく。
これは噂によると、昔はうどんの玉を売つてゐたのがどうしても売れ残るので、それを近所の人に食べてもらはうとしてはじめた店で、もともとさういふ発祥だから、何につけてもすこぶる愛想がない。今はさすがに違ふが、ついこのあひだまで、客はめいめい丼を手にして、大釜の横に並ぶといふ、徹底したセルフ・サーヴィス方式だつた由。そして、これは今でも同じだが、つけ汁は貧乏徳利にはいつて、テーブルの上に置いてある。客は自分でそれを器に注ぐのだ。隅のほうのテーブルには、その貧乏徳利もなくて、マルオ醤油のびんにつけ汁が入れてあつた。
このつけ汁が、入り子とサバブシ(カツオブシではないし、おそらくハラワタのところを除いてゐない)を醤油にぶちこんでぐらぐらさせただけのものらしく、苦いやうな渋いやうなきつい味で、しかも、増築する前はもつと塩つぱくて、もつと無愛想な味だつたらしい。ところが、このつけ汁にネギとシヨウガを入れたやつに、白くて長くて熱いものをほんのちよいとひたして、ちようど通が蕎麦を食べるやうにすすると、なるほど、これこそは本当のうどんだ、これを食べずしてうどんを語るのは、『古事記』『萬葉』を読まずして日本文学論を一席ぶつやうなものだといふ気がしてくる。店内には、労務者だのトラックの運転手だの、うどん通があふれてゐた。

しかし、うどんの研究といふのは非常に複雑なもので、長田うどんは要するに農民派のうどんの原点にすぎないといふ説もある。本来、うどんは僧院のものであつて、そつちの流儀の原点は、現時点においてもなほ挫折することなく、大いに繁昌してゐるといふのだ。そこで、もう一つの淵源を探るため、今度は徳島に近い大窪寺の八十八庵[やそばあん]へゆく。東奔西走、大変である。
この大窪寺といふのは四国八十八ケ所を巡る遍路の終点、八十八番結願所であつて、バスで乗りつけた大勢の遍路の衆が、いかにも、やれやれこれでおしまひだといふ風情で、うどんをすすつてゐる。そしておもしろいのは、これらの善男善女を引率してゐる坊さんが、まことに兇悪な人相をしてゐることで.....しかしこれはまあ、うどんの話とは関係がないね。
この八十八庵もまた、今のやうに藁ぶき屋根になる前はもつと古風な味のうどんを食はせたし、もつとうまかつたさうだが、しかしそれでもわたしは、最初の釜上げうどんを一口食べてすつかり感心した。うどんの上にシヨウガ、胡麻、海苔、ネギをのせ、ちよつと見ただけでは判らないくらゐほんのちよつぴり醤油(生醤油)がかけてあるきりなのだが、白くて腰のある柔いものが、これらの薬味と入りまじり、生醤油がそれを引立て、清楚可憐、まことに瞠目すべき味なのである。
次は団蔵うどん。以前はざるうどんと呼んでゐたが、団蔵が入水数日前にこれを食べて絶讚してくれたのでかう名づけたとのこと。薬味はネギと海苔とワサビと胡麻。細麺をつけ汁にちょいとひたして食べる。いかにも東京の歌舞伎役者にふさはしい、粋で冷艶な感触だつた。