「付説・幕の内弁当小史 - 榮久庵憲司」幕の内弁当の美学 から

 

「付説・幕の内弁当小史 - 榮久庵憲司」幕の内弁当の美学 から

起源 幕の内弁当の起源は、江戸時代、芝居見物の際に食したものからはじまったとするのが定説になっている。もとは楽屋の裏方や役者のためにつくられ、しだいに観客の間でも流行するようになった、ともいわれる。いずれにせよ、芝居見物の食の風俗の中で、この形式は定着したのであろう。なお、江戸期の芝居風俗に現われた弁当を総称して、幕の内弁当とする説もあるが、ここでは芝居の弁当のうち、特に、握り飯に汁けのない数品の副食物を添えた形式を幕の内の弁当形式と呼ぶことにする。
「幕の内」の語源 幕の内という語には、①遊山、行楽などの際に張りめぐらした幕の内側。②芝居で、客席からみて幕の内側。舞台。また、その舞台に立つ人。役者。③芝居で、幕のしまっている間。幕間[まくあい]などの意味があるが、幕の内弁当の語源も、芝居の幕間に食べたところから、とする説が有力である。なお、戦陣の幕の内で食べた携行食から転じたとする説、相撲の小結は幕内であるところから、小さいお結びの意につけたとする説もある。
万久の「幕の内」 『守貞漫稿[もりさだまんこう]』(嘉永六年・一八五三)の芝居茶屋に関する記述の中には、中飯江戸は幕の内と号けて円扁平の握り飯十★を僅に焼之也添之に焼鶏卵蒲鉾こんにゃく焼豆腐干瓢以上是を六寸重箱に納れ人数に応じ観席に持運ぶを従来の例とすとあり、江戸末期の幕の内弁当の姿が明示されている。さらにその用いられ方としては、専ら茶屋にて製すこと勿論なれども小屋は自家に調之ず芳町に製之店ありて一人分價銭百文とす笹折に盛りたり是を茶屋にては重に詰させて客に出すもあり、また、芝居用のみに非ず病気見舞に贈り物とし或いは倹の他行に弁当に用之とあり、おそくとも江戸末期には、握り飯に副食物を添えた形式の弁当を幕の内と称していたことがわかる。また、これをつくる店として、同書は江戸芳町の万久という店が元祖であったとしている。この万久は浅草にも出店を出し、両店とも名物として繁昌したようである。「幕の内」の名称は万久の弁当の一種の商標であったとも考えられる。
日本における「弁当」 弁当の語は、外出先で食事をするためには、器物に入れて持ち歩く食物、あるいはそれを入れる器物をいい、江戸時代以前からあった。もとは食品を一人前ずつ人の面前に盛りあてる容器(面桶[めんつう])から転じたともいう。また、行厨[こうちゆう]といって、多人数の食事道具、材料等を納めて、遊山に携行する筥[はこ]を「べんとう」といった時代もある。
山仕事、野良仕事、漁、旅、戦争など食物を携えて外出する機会に古来さまざまの携行食が、用いられてきた。古くには飯を乾燥させたかれいいが携えられた。室町以降握り飯が発達したが、庶民の間では、土地に応じて稗、粟、焼いもなども用いられていた。弁当の入れものは、植物の葉や皮で包むほか麻袋、苞[つと]、行李、曲物[まげもの]などが日常使われた。
握り飯 握り飯は、日本な代表的な弁当形式である。平安時代には、公家・貴族の邸宅で饗宴の際、下級者に強飯[こわめし]のむすび(「屯食」[とんじき])を給した。庶民が今日のような姫飯[ひめいい]の握り飯を用いるようになったのは、米食の普及や飯の炊き方の変遷からみて、よほど後世であるが、江戸時代には握り飯、あるいは「おむすび」の名で呼ばれ、普及していたとみられる。
握り飯には、塩むすび、味噌むすび、焼むすびのほか、梅干を入れたもの、海苔で巻いたものなどがあったが、普通は副食をほとんどつけなかった。遊山・行楽などの際に日常の握り飯弁当に、普段は口に入らないような副食物が加えられたものが、幕の内弁当の祖型であろう。

遊山・行楽の伝統 幕の内弁当は、外出時の空腹を満たす、まにあわせの弁当ではなく、遊山・行楽の伝統の中で成立したきた楽しみの弁当である。野外饗応、遊山・行楽は古くから行われていたが、その根源は、農耕社会の中で生まれた農民的な生活感覚に求めることができる。遊山の典型例である花見は、農亊の開始にあたって、田の神をまつって、神人飲食をともにする古習とされている。また、春の花の咲きぐあいを見て、その年の作柄を占い判じたもの、ともいわれる。また、花見に似た習俗で山遊びや磯遊びといって、一族そろって山や磯に出かけて一日を遊び暮らす風習もあった。そこでは酒宴を主とした飲食がなされ、そのための弁当には日常の食事、日常の弁当にはない豪華さが、食品・容器ともに求められた。
花見 平安時代に入ると公家たちが、民衆一般に伝承されていた農耕神事の風習を受けて、花自体を賞[め]でる催しをさかんに行なった。このころ編まれた歌集には花見を詠んだものが多い。また有名な秀吉の醍醐の花見(慶長三年・一五九八)などのように、後の武将、大名たちも豪華な花の宴を開いている。安土桃山時代から江戸初期にかけて、都市の民衆の間でも花の下での宴がさかんになる。当時の数々の風俗屏風には、その様子が活写されている。
このころまでの花見、野外饗応には、携行食器として、行器[ほかい]や食籠[じきろう]、重箱、行厨などが使われた。行器(外居)は外へ行くの意味で、屯食などを入れたとされる。食籠と重箱は重ねることができる容器で、食籠が古いかたちである。重箱は戦国中期から使用され、漆塗りのものは桃山時代の物見遊山の際、多用されたようである。行厨は多人数分の食器と料理を一つに納めるもので、信長時代にできた。当時「べんとう」といえば、この行厨をさした。
江戸の花見が本格化するのは、江戸時代の中期、宝暦、明和、安永のころからである。各所に花見の名所がうまれ、江戸末期には向島が桜の名所となった。京都でも早くから嵐山や醍醐などが花見の名所であった。江戸の花見は公家風の優雅さをこえて桜の名所に団体でくり出し、唄い踊って騒ぐ享楽的なものになってゆく。この傾向は江戸の天保以後に著しくなった。
花見弁当 この時代には花見に限らず、行楽がさかんになり、さまざまな工夫を凝らした弁当容器を「花見弁当」と呼んだ。これらは弁当箱(重箱)と、盆、皿、盃、徳利、箸などがコンパクトな形に組み合わされたもので、ふつうの運搬の際には外箱におさめ、一般には提重[さげじゆう]ともいった。入念な細工がほどこされたものも多く、塗りが上等で蒔絵をほどこしたものは武家や豪商の持ち物で、蒔絵がなく、奇抜な仕掛けがあるものは中流以下の商家や庶民の持ち物だったようである。
花見弁当には大型の、数人分の弁当が入るものも多く、花見の場ではこの弁当を緋毛氈[ひもうせん]の上にひろげ、宴をはった。この花見弁当箱の中味は、幕の内弁当と同様、飯は食べやすいように小さく握られていたであろうし、特別の副食物が彩り豊かにとりこまれていたであろう。この弁当は花見だけに限らず、そのまま相撲見物や芝居見物にも使われた。

芝居風俗 江戸期も文化・文政以後になると、富裕化した商人、町人は芝居見物に情熱をそそぐようになり、独特の芝居風俗を生んだ。当時の芝居は一日がかりの見物であり、幕間は華やかな社交の場となった。羽振りのよい商人は、多人数分の豪華な弁当を用意させ、ひいきの役者にこれを差し入れた。役者はこの弁当を弟子や裏方にふるまい、幕間には一同をひきつれて、桟敷へ礼に繰り出した。このように桟敷で派手にふるまうのは家の羽振りの良さ、信用を示すことでもあった。質素な日常生活を強いられていた一般の庶民も、芝居見物のために着物を新調したり、専用の弁当箱をそなえておいた。芝居当日には専門の料理屋に仕出しをさせるなど、日常の食生活とはかけはなれた豪奢な弁当を携えた。
芝居茶屋の弁当 当時の芝居は観劇と飲食とが組み合わされた娯楽形態であり、芝居茶屋が、京、坂、江戸の三都でそれぞれ発展した。大きな茶屋では自家に板前を置いて客に料理を出し、中小では外から仕出しを取り寄せていた。江戸の芝居では茶屋から芝居小屋に行くと、若い者が茣蓙[ござ]と煙草盆を持って案内し、昼には幕の内弁当、午後は寿司と水菓子とをはこんで来ることになっていた(岡本綺堂による)。また、『守貞漫稿』に、観席に付くと時に煙茶及び番付を持来り次に菓子次に口取肴次にさしみ即或は□肴次に煮者次に中飯次に鮓□りに水菓子以上を通例とすとあり、さらにこの中飯が江戸においては幕の内という弁当であったとしている。『守貞漫稿』にはさらに、京坂は自家より酒肴及飯をも携へ往くものあり昔は大半如此なりしが近年は漸く□すれども亦稀に無に非ず百に一二は有之江戸には自家より弁当携る者なしとして芝居に弁当を持参することが江戸末期にはすたれてゆくさまが記されている。芝居茶屋の弁当について、因果道士の『都繁昌記』(天保九年・一八三八)には、三つ重ねの径四、五寸のものに、一は九年母[くねんぼ]を切って二、三枚、一は塩鯛の焼いたもの、一は蒲鉾と紅生姜、それで金百匹。飯つきなら菓子椀に椎茸、湯葉、半片[はんぺん]を煮たもの、それにハモを骨切りにして一切れつけ、白銀一両とる、等とある。万久のものよりもかなり高級なものもあったことがわかる。
なお、芝居茶屋の弁当容器としては、経木[きようぎ]でつくった折(ささ折)や重箱を用いた。仕出し屋で経木折に入れたものを茶屋で重箱に詰めかえさせたりもした。
芝居弁当の形式 以上さまざまの芝居弁当は、食べやすい小型の握り飯に汁けのない数種類の副食物を添える形式をとっていた。桟敷で連れと会話を交わしながら食べる食べかたがうんだ形式である。これを量産のしやすい規格化された商品としたのが、江戸の万久の弁当に代表されるような幕の内弁当である。多人数での共同飲食を前提とした遊山弁当に対して、この幕の内はひとりでも楽しめる弁当、芝居、酒宴に限らない手軽な弁当である。実際、万久の幕の内弁当は、病気見舞や贈り物に用いられた。

懐石風「幕の内」 近世後期の享楽の弁当は、花見弁当と、万久に代表される簡便な弁当(ささ折に、一人分の握り飯と副食を詰め合わせたもの)とに分化しつつあった。ところが、現代の料理屋等で典型的に見られる幕の内弁当はこのいずれとも異なった風がある。俵形の飯には黒胡麻。副食はごく少量ずつ。多くは、一重の漆箱に美しく盛られている。懐石料理の影響が色濃く感じられる。現在、幕の内弁当の定型とされている「俵形に黒胡麻」という握り飯の形は、もともと京坂風のもので、関東風のものは偏平な円形か三角形だとする説がある。これに従うなら、現代の定型は京坂起源ということになる。この弁当は、花見や芝居用に発展しつつあった幕の内形式の弁当を茶の席に合うように内容、容器ともに改めたものであると考えられる。もともと茶には「野点」というかたちがあり、野外での簡略な懐石として弁当が使われはじめたのであろう。
「懐石」とは温石を懐して腹を温める程度に、空腹を抑えるための食事という意味であり、もとは一汁二菜または三菜の禅寺風の食事であったといわれている。茶懐石の形式は天正中期に千利休によって整えられたと伝えられているが、現在みるような洗練されたものになったのは江戸も元禄年間以後である。弁当容器に飯と副食の料理をともに盛って供するという形式が茶懐石に本格的にとりいれられたのはさらに後年かもしれない。茶懐石風幕の内は、一時の「おしのぎ」の、軽い食事であり、盛られる食品の量がごく少量であるのも、芝居用・遊山用の弁当と大きく相違している。
懐石の基調である「一汁三菜」の原則は、この幕の内にも踏襲され、汁、生物、焼物、煮物が盛りこまれる。すなわち、当初からもてなしの弁当としてうまれ、食べられる場所も、もっぱら茶の席と限られたこの幕の内弁当は、近代以後になると、茶懐石の場だけでなく、いわゆる料亭等で供される弁当や高級な仕出し弁当の典型となってゆく。しかし、現在のように懐石風弁当が広まったのは、第二次大戦後のことである。
さまざまな懐石弁当 茶懐石風の弁当は、ほとんどが幕の内形式をとっている。さまざまなヴァリエーションがあるが、副食物の内容は大同小異である。ただし弁当容器の形は独特のものが工夫されて、茶人好みといわれるような変わった形態のものが現われてくる。代表的なものに、利休が好んだと伝えられる半月形(半月弁当)、小判形、扇形などの変形のもの、隅切りの正方形(大徳寺)、なつめ形の重ねもの(信玄弁当。武田信玄が使ったわけではなく、信玄袋に納まる形)、中を十字に仕切った正方形(松花堂)などがある。
また、懐石風弁当には飯を、幕の内本来の俵形ではなく、花形、円形、瓢箪形、扇形などの押しぬき「もっそう」にしたものがある。この「もっそう」には握り飯とは異なる起源があろうが、飯を食べやすくまとめる点では握り飯と同じである。幕の内と同様の内容物を盆の上に盛ったもの(懐石では点心盆などと呼ぶ)もある。しかし、「弁当」とは弁当容器に入れた食品の意であり、これは幕の内弁当とは呼べない。
松花堂弁当 現在、料亭などでは四角い箱の中を田の字形に仕切った松花堂弁当と呼ぶ懐石弁当が多用されている。この器の由来は、江戸初期の茶人であり、同時に書家、画僧でもあった松花堂昭乗(一五八四-一六三九)が、農家の種入れとして使われていた器から示唆を得て、この形の煙草盆を考案して茶会で愛用したものだが、後世になって、松花堂好みの弁当箱として伝わったものだとされている。煙草盆として使うには、十字に仕切られた中にそれぞれ、火入れ、灰吹き、煙草、火打ち石と付け木を入れた。薬箱にしたものだという説もある。弁当箱の中を仕切ったものは古くからあった。平安時代から破子[わりこ]は檜でつくられ、中に仕切りがあった。『和漢三才図絵』(正徳二年・一七一二)には、松花堂と同じく、中を十字に仕切った方形の破子が描かれている。
阪高麗橋の「吉兆」は昭和のはじめ、この器に初めて点心を入れることを考案した店で、松花堂弁当の元祖とされている(湯木貞一『吉兆味ばなし』暮しの手帖社)。それが広く流布して、どこでもみられるほどになったのは戦後しばらくたって、外食の機会が増えてからのことである。松花堂の内容は、他の懐石風幕の内弁当と大差ない。その盛り方は「右上が向付け(刺身)。左上が口取り(前菜)。左下が煮[た]き合わせ。右下へ御飯』(「吉兆」の松花堂)と、おおまかな約束があるともいうが、飯を左右どちらかの手前側にする以外は店によって一定していない。また、汁けのある料理は仕切りの中にちょうど入る陶器に盛って入れることになっている。飯は俵形握りよりも型押しの「もっそう」の方が多くみられるようである。

駅弁幕の内 現在、幕の内弁当といえば料亭の懐石風よりもむしろ、駅売弁当、いわゆる駅弁の幕の内弁当を連想するであろう。現在の駅弁は行楽-芝居-茶席といった享楽の弁当と、農作業、山仕事、戦陣といった実用の弁当との接点に位置する性格をもつといえる。日本の駅弁のはじまりは明治十八年(一八八五)、上野ー宇都宮間に新線が開通したときに、宇都宮駅で売られたもので、その弁当は、黒胡麻をまぶした梅干入りの握り飯二個に沢庵漬を添え、竹の皮で包んだもので、当時五銭だった。たくさんの副食物を折詰めにした幕の内の形式は、山陽鉄道が姫路まで開通した翌年の明治二十二年(開通と同時の二十一年ともいわれる)姫路駅で売り出されたものが最初である。その弁当は経木の折に、鯛、蒲鉾、伊達巻、金団[きんとん]、ウド、百合根、奈良漬、鶏肉などを握り飯とともに詰め合わせたものだった。これらの副食は明治中ごろではなかなか口にできない料理屋風のものであり、この弁当は、握り飯の駅弁にはない享楽弁当の性格をもっていた。
この形式は、江戸末期の量産型の芝居弁当に近似している。芝居と同じく、列車の中でも、弁当をひざの上にのせて食べるという、食べかたの制約があり、鉄道で旅行することが、一種の晴れの出来事であった時代ならば、副食に珍しい料理を入れる意味もあった。この弁当を幕の内と呼んだかどうかは定かでないが、芝居起源の量産型弁当との類似からしだいにこの形式の駅弁も同じ呼称をもつようになったものと思われる。
明治のころは飯一段、副菜二段の計三段式、大正時代は二重折が駅弁幕の内の一般的な形式であったが、大正十年(一九二一)、神戸鉄道管理局では仕切り一つで飯と副食物を一緒に詰めこみ、また、従来の正方形の折箱を長方形に変えた。今日の駅弁形式の定型に近いものの出現である。後に、上等弁当は二重折にもどされ、第二次大戦まで、二重折のかたちは多かった。大部分の駅弁が一段になったのは昭和四十年(一九六五)以後である。
普通弁当 駅弁は普通弁当と特殊弁当に大別される。昭和四十一年一月一日付の鉄道公報によると、「普通弁当」とは、米飯のほか副食物に肉類、焼き魚、卵焼き、佃煮などを容器の隅または別容器に少量ずつ詰め合わせ、広範囲の嗜好に合うよう調製した弁当をいう。「特殊弁当」とは、米飯を主とし、副食物に特別な原材料を主体として調製したもので、寿司、うなぎ飯、鶏飯、握り飯の類をいい、普通弁当に特殊材料を一部添えたものは含まない。
幕の内弁当は代表的な「普通弁当」である。そして、前記公報の説明から明らかなように、「普通弁当」のすべては幕の内の延長上にあるともいえる(差異は飯を握り飯にするか否かだけである)。
幕の内の現在 明治の一膳飯屋、大正中ごろの簡易食堂や大衆食堂から発展した飲食店は、戦後になってさらに激増した。このために日常の弁当はしだいに不要なものとなり、外食が弁当にとってかわりつつある。確かに、通勤・通学でも、行楽でも、弁当を携えるという機会は少なくなった。明治三十年代から普及したアルミの弁当箱が、一時「腰弁族」などと呼ばれたサラリーマンのシンボルであったことも忘れられようとしている。学校等の給食制度の一般化も弁当を食べる機会を少なくした。
日常、弁当と接しなくなった傾向とは逆に、松花堂をはじめとする懐石風幕の内ら、やや高級な飲食店の人気商品となり、これを手軽に客のもてなし用として利用するようにもなった。家庭料理の実用書などで「日本のお弁当の典型」としてあげられ、「もてなしにふさわしい」弁当と解説されている「幕の内弁当」は、ほとんどがこれら懐石風のものである。
デパートやスーパーマーケット、食料品店などの店頭で販売される折詰弁当で典型的なのは、透明ポリ容器入りで、飯と多品目少量の副食が詰め合わせになったものである。最近は店頭で客の注文をうけ、その場で手早く詰める専門の弁当屋があるが、ここで販売される幕の内も内容は同様である。これらの弁当は副食の内容が貧弱なものが多く、享楽の弁当として発展してきた幕の内弁当とは異質のものであるともいえる。また商品名を「幕の内弁当」としながらも、飯を握り飯にも、型押しにもせずにそのまま詰めただけのものもある。
なお、幕の内弁当の俵形握り飯には専用の木型(「幕の内器」などと呼ぶ)があるが、駅弁業者では大きな型押し機械を使っているところもある。
現在では、大量に弁当をつくり、会社、事業所等の昼食用として配送サービスする弁当仕出し業がある。これなども弁当の内容は幕の内弁当に近い形式で、多品目の副食を飯といっしょに一重のプラスチック製重箱に詰めることが多いようである。以上に限らず、現在の弁当は、家庭の弁当も、営業用の弁当もともに、副食品数の多い、いわば「幕の内的な」弁当になっている。
米食と幕の内の未来 幕の内弁当の歴史をふりかえってみるとき、容器、盛りつけ方、副食の料理、どの面をとっても多くの変遷があったが、飯を握るか型押しにすることだけが一貫していた。握り飯だけが変わらず、副食の素材、料理法については汁けのないものであることという枠があるにすぎなかった。今日でも幕の内の副食は常に変化している。大正のころ、「あいのこ弁当」などという言葉があったように、洋風料理を副食としてとり入れることさえ行われた。
日本食の基本としての米飯は、栄養の点でもバランスがとりやすく、味の点でも、どのような料理ともとりあわせのきく理想的な食品である。料理素材の自由なとりいれが可能な、幕の内という形式が生まれた要因は米飯食にあったともいえる。弁当の基本に米の握り飯があり、食べることを楽しむ享楽の場のために弁当を準備するとき、これにごちそうを自由にとりあわせるならば、すでに幕の内である。幕の内形式の成立は米食の弁当には必然的なものであった。日本人の主食としての米飯の位置はこれからもゆらぐことがないであろう。それゆえ弁当を食べることの楽しみが忘れられぬかぎり、幕の内弁当は日本の代表的な弁当形式でありつづけるであろう。