「私の乗物恐怖症歴 - 横溝正史」日本の名随筆45狂 から



 

「私の乗物恐怖症歴 - 横溝正史」日本の名随筆45狂 から

私が乗物恐怖症というやっかいな病気にとりつかれてから、もうかれこれ二十年になる。最初にその発作を自覚したのは、昭和八年ごろの夏のことだった。そのころ博文館の編集部にいた私は、家族一同を北条へ避暑においやって、じぶんは友人とふたりで本郷へ下宿した。
家内との約束では、毎週土曜日から日曜日へかけて、出むくことになっていたのだが、ひさしぶりにのんきなひとり者の生活にかえった私は、約束もなんのその、東京で連日酒びたりという、放蕩無頼の生活をおくっていた。
それでも三週間めかに、さすがに気がとがめた私は、土曜日の午後両国から汽車にのった。暑い、暑い日盛りだった。汽車はそれほど混んではいなかったが、連日の深酒ですっかり神経の調子をくるわしていた私は、この暑い日盛りの汽車のなかで、とつぜん、なんともいえぬ恐怖におそわれたのだ。
これはおなじ経験を持っている人間でないと、説明しても理解できない恐怖である。私は檻のなかのライオンか虎のように、汽車のなかを歩きまわった。ほかの客が変な顔をしてじろじろ顔を見るのだが、そんなことはかまっていられなかった。
汽車からおりたいという欲望と、しかも、ひょっとすると無謀にも、汽車からとびおりるのではないかという恐怖、名状することのできない孤独感と空虚感。‥‥‥汽車が駅へつくごとに、ここでおりようかと思いながら田舎のこんな小さな駅へおりてどうなろう、もう汽車に乗る勇気はなくなるだろう。‥‥‥‥
そうして躊躇しているうちに汽車は出てしまう。ふたたびおそってくる恐怖症。‥‥‥それを何度かくりかえしているうちに、汽車が千葉へついたので、とうとう私はそこでおりてしまった。
千葉という町ははじめてだったが、日盛りの町をふらふら歩いているうちに旅館が目についたのでとびこんだ。女中に床をしいてもらってもぐりこんだが不安は去らない。湯殿へいってつめたい水を頭からかぶってみてもおなじこと。女中が変な顔をして見ているが、なんともいえぬ空虚な孤独感と恐怖は、どうすることも出来ぬ。
だが、そのうちにふと思いついて、女中に正宗の二合瓶を持ってきてもらって、ラッパ飲みしてみたら、やっと気分が落ち着いた。女中に冗談もいえるようになり、どうしてあんなに怖かったのかわからないというような気持になった。
そこでもう一本二合瓶を用意して、千葉から汽車を乗りついで、途中で二合瓶のラッパ飲みしていたら、それがからになるころには、すっかり御機嫌になって、矢でも鉄砲でも持ってこいという勢いになった。そのときはじめて、乗物恐怖症というやつは、深酒による神経のヒズミからくるらしいが、それと同時に、酒によってまぎらわせることができるものだとしった。
北条へついたその翌日、体がだるくて海に入る気もせず、海水着のまま、焼けただれた砂のうえに寝そべっていたら、咽喉のおくからヌルヌルしたものがこみあげてきた。パッと砂のうえに吐いたら、真紅な血のかたまりだった。私はあわてて砂でかくすと、家内にもだまっていた。私が大喀血をしたのはその翌年だが、そのころから相当いくなかったらしい。
大喀血後、私は三ヵ月ほど富士見の療養所へ入っていたが、そこですっかり解放生活を身につけてきた私は、それによって乗物恐怖症に拍車をかけたらしい。
クラウストロフオビアという言葉が英語にある。字引をひいてみると閉所恐怖症とある。閉めきった、せまい部屋へとじこめると、恐怖の発作を起す病気らしく、ある探偵小説に、そういう病気をもった容疑者をちょっとしたことで牢屋へ入れると、恐怖のあまりべらべらといっさいしゃべってしまうというのがあった。私はそれを読んだとき怖くなった。
うっかりへんな疑いをうけ、留置場なんかへぶちこまれたらたまらない。閉所恐怖症のために、なにをしゃべるかわからんと思った。
この閉所恐怖症が乗物恐怖症に結びついてきたから厄介である。私はいま小田急沿線の成城に住んでいるのだが、絶対に急行には乗らない。
去年は電車に乗ったのはたった二度だが、いつも成城発の各駅停車にのるのである。各駅停車だと、あっ、怖い、‥‥‥と思いかけたころにはもうつぎの駅へとまっているからだ。それも絶対に家内のお供つきで、私は五合の酒の入った水筒を、後生大事に肩にぶらさげているのである。