(巻三十五)物指しの違ふあなたと心太(平野みち代)

(巻三十五)物指しの違ふあなたと心太(平野みち代)

10月24日月曜日

氷雨とは云わぬが小雨が降るなかを買い忘れのミカンほかを買いに生協へ出かけた。雨ながら人出そこそこ。冬支度なされなされと、一角に手袋、襟巻き、冬帽子とカイロが置かれていた。

昼飯喰って、昼寝はせず。午後の散歩もせずにボンヤリと過ごした。

願い事-涅槃寂滅。

寒さとなるとこの短編かな。

「日常の快適について - 玉村豊男」日本の名随筆別巻76常識 から

私は、一度だけだが、馳け落ちを試みたことがある。二十五歳のときだ。

私がつきあっていたのはB子という、同い年の、美しく、愛らしく、聡明な、魅力に富んだ女性だった。共通の友人を介して会い、ほどなくしてたがいに関心を抱き合うようになり、関心は急速に恋愛感情にまで発展した。はじめて口づけをかわしたのは春の終りで、秋の風の立つ頃には、ともに結婚の相手をこの人と思い定めていた。

当時、私は、定職を持たなかった。それを言うなら今も同じようなものだが、自由業といえば聞こえはよいものの、ときに通訳をしたり、翻訳をしたり、外人相手の観光案内を引き受けたりの、その日暮らしを送っていた。もっと落着いた、たとえば自分で文章を書いて生計を立てるような状態を望んではいたのだが、もとより怠惰でそのための努力といえるようなことはなにひとつせず、ただどこからか自分の人生を変えるようなチャンスがやってくるのを待ち続けていたわけで、そんな考えの者にそう簡単にチャンスがやってくるはずもない。しかし、生活の設計をすることと人を好きになることとは別の問題であり、好きになればその人と四六時中いっしょにいたいと思うようになるのは至極当然だから、私自身は、自分がどのような状態であってもその人との結婚を望んだのであった。

馳け落ちの顛末については、細部に関してはかなり記憶が欠落している。十五年前には死ぬか生きるかの大問題だったのが、いまではいくつかの場面の鮮明な映像の他はすべてセピア色に褪せた古い写真のようになってしまっている。だから、私がB子の実家へ、お嬢さんを私にください、と言うために一人で乗り込んでいったのがいつの季節だったかも、はっきりと憶えてはいない。年の暮れが近かったのか、それとも早春を迎えてからのことか。ただ、馳け落ちを決行する予定の日が、相当寒い頃であったことはたしかなのだ。

彼女の父親には、一喝されて帰ってきた。定職を持たぬ、将来の展望もない者に娘をやるわけにはいかん、という、父親としてはもっともな意見だった(私はそのときに将来は物書きになりたいと言い、彼女の父は物書きになるのならまず新聞社にでも勤めて修業するのが常道だと言ったことだけはよく記憶している)。しかし、父親の意見と私の希望とは、これもまた別の問題であり、父親がどう考えようと私は彼女といっしょになることを望んでいたので、事を穏便に運ぶことができない以上、必然の帰結として、いささか手荒いが馳け落ちという方法を選ぶことになったわけだ。

彼女は、もちろん、困惑した。素直に育った良家の子女であったから、親に反逆するような行為の実行に関しては、よほどの覚悟が必要だった。それでも、恋愛は多少無頼の精神を育む性があるもので、私の強力な説得も効を奏してか、とうとう馳け落ちを決行することに同意したのである。そして私は数人の友人たちの協力を得て、某日の夜半に彼女の家の裏口近くにクルマを差しまわし、身の回りのものを持って飛び出してくるB子をさらって、横浜のホテルに投宿する手はずをととのえといたのだった。

先のことはあまり深く考えていなかったが、あとはどこかに安アパートを探して、同棲生活をはじめるつもりだった。だから私のほうも、身辺を整理して、新しい生活のために役立つものがあれば持って行こうと、中華鍋などを磨いていた。その頃から私は自分でよく料理をつくっていたので、すでによく使い込んだ中華鍋を所有しており、中華鍋が一個ありさえすればたいがいの料理はできるから、新婚の生活にはさぞ便利であろうと思い、しかし曲がりなりにも二人の新しい門出であるからには、あまり黒い煤がたくさんついているのもよろしくなかろうと、必要な分まで削り落とさぬように注意しながら(煤はある程度ついていたほうが火のまわりがよい)、鍋の化粧直しをしたのである。

そんなふうにして、実行の日が近づいた。

しかし、結局は、馳け落ちは実行されなかった。

あれは、たしか予定の日の前日か、前々日か、夜遅く彼女から電話がかかってきて、やっぱり私は家を出て行くことができない、ごめんなさい、と、涙声で告げられたのだ。彼女は思い悩んだ末にひとつの決断を下し、その決断を動かそうとはしなかった。計画は中止された。私たちはそのあと、何回か会って話したが、そうなってからは別れるの別れないのと言いつのったところで恋は余?ほどの力さえなく、私にも彼女を翻意させるに足る新しい材料はなかったから、気まずいデートを繰り返しただけで、本格的な春がやってくる前に、二人は二度と会わないようになってしまった。

彼女は両親と、だいぶ激しい言い争いをしたようだった。馳け落ちの計画そのものは知られるには至らなかったらしいが、娘が不穏な行為に出そうな感じは察していたのだろう。あらゆる方法を用いて、定職を持たぬ不埒な男との関係を絶ち切るよう説得を重ねたに違いない。と同時に、身元のたしかな、一流企業に勤める、前途有為な青年との見合話を急いだ模様である。

いま考えれば、B子は健全な考えを持った堅実な女性であり、固い職業を持った父親と、おそらくはその父親に対して従順であったろう母親とに逆らわずに、世間一般のごくまっとうな結婚をして母となるのが、もっとも幸福な選択であっただろう。実際にそのときに急いだ見合が成功して結婚したのか、それともその後いくらかの曲折があって他の人と結婚したのか、以後は何の消息もないから知らぬが、いずれにせよ彼女のような人は、物質的にも恵まれた安定した結婚生活に入って、いまごろは可愛い子供に囲まれて幸福な暮らしをしているに違いないと思っている。

日常の快適というのは、私たちにとって欠くべからざるものである。

若い頃は、どんな環境にあっても暮らすことができる。欠けた茶碗と、それこそ中華鍋のひとつでもあれば、それだけで幸福な食卓をととのえることができるし、愛の褥[しとね]はセンベイ蒲団一枚で十分だ。ありあまる情熱と体力は、生活の不便を快適にさえ変えてしまう。

しかし、そうした熱病のような季節を過ぎればすぐにわかることだが、どんなに愛に満ちあふれた二人であっても、一時期の激情を永続的な情愛に昇華して幸福な関係を固定するためには、やはり厚く柔らかい蒲団や独立したベッドルームや、いやなときにはたがいに顔を合わせずにすむだけの空間を持つ家が必要であり、中華鍋のほかにフライパンもシチュー鍋も必要になるのだ。このことは誰にもわかることだが、手遅れにならない内に、早くから理解しておくことが望ましい。

彼女が私との馳け落ちを断念したのは、両親の説得に負けただけではなかった。あとになって彼女の親しい女友達の口から聞いて知ったのだが、彼女には彼女なりの、胸に落ちるひとつの納得があったのである。

決行を予定した日の数日前、彼女はひそかに自室で私物の整理をしていた。洋服ダンスを開け持っていく衣裳と残していく衣裳を分けたり、宝石箱から好みのアクセサリーだけを取って小さな袋に詰め替えたり、何度も迷った挙句、ようやく大型の旅行鞄に入りきるだけの量に手荷物をまとめ終えたのは、深夜の二時を過ぎる頃だった。

> 出立の準備を終えた彼女は、もうこの家ともお別れかと、思いを込めて家の中を見まわしながら階下に降りて、寝る前に、荷物の整理で汚れた手を洗おうと、暗い洗面台の前に立った。そして、ゆっくりと、水道の栓をひねった。

栓をひねると、すぐに、勢いよく温かいお湯が流れ出した。

そのお湯を両手に受けたとき、彼女は思わず泣き出してしまったのだそうだ。涙があふれて、とまらなくなった。ああ、もしもあの人と馳け落ちをしてしまったら、夜中にお湯の出る家には住めないだろう、寒い夜にも、冷たい水で顔を洗わなければならないだろう。そう思うと、わけもなく悲しくなって、ひとりで声を立てずに泣き続けた。......彼女がひとつの決断をして、私に電話をよこしたのは、その次の日のことだったのである。

私は、日常の快適を愛する者である。現在は私も深夜にお湯の出る家に暮らしているが、たまに夜遅く顔を洗ったりするときに、あのB子のことを思い出し、そういう堅実な考えかたをする女性を好ましく思うことがある。と同時に、みずからを顧みて、いまはいちおう日常の快適をひと通り手に入れてはいるけれども、いつ何が起きて生活が転覆するかもわからない自由業、それも、社会のためにとくに役立つとも思われぬ、なければないで済むような物書き商売にたずさわっている自分は、やはり彼女とは別の地平を歩く人間だったのだなと、いまにして納得するところもあるのである。