(巻三十五)長生きをして冷蔵庫四台目(福嶋紀子)

(巻三十五)長生きをして冷蔵庫四台目(福嶋紀子)

11月9日水曜日

今日の句はいいですね!書き留めたときの受け止め方と今の心境で味わっているのとではかなり違うのでしょう。パソコン4台目か。

朝家事。息子の布団カバーと毛布カバーの洗濯。自分の洗濯。細君の洋服の手入れ手伝い。昼食準備の手伝い。細君、なぜか気が立っていてキャン×キャンといつもに増してうるさい。

昼飯喰って、一息入れた後ビックへパソコンを受け取りに出かけた。

セットアップ爺さんから機能説明を受け、USB用のアジャスターを追加購入して退去。

帰途、都住3でクロちゃんと戯れて心を静めた。

帰宅し、先ず保証書など後日必要となる書類をファイルに整理した。

そして、初手にして決め手となるWifi接続に着手。古いパソコンでwindows11のWifi接続の説明を見なおして、一つ一つゆっくりと進んだ。息子がルーターの横に貼り付けておいた手書きの番号を打ち込む。一度ハネられて唸ったが、再度より慎重に打ち込んだら接続‼エッジで試して大丈夫‼次いでウィルスクリアに電話して月額版をインストールして防御体制確立。続いてリモートサービスに連絡して支援体制確立。顔本開設。と、順調に進んだ。あれだけ脅されて、ビクビクしていたが、年寄をカラカウか、食い物にしようとしていたかのどちらかじゃないのか?と思う。

しかし、逆の目よりは遥かに悦ばしいことで4GB64GBにしないで済んだのは良き助言のお陰である。有り難い。

願い事-涅槃寂滅です。何かが少し上手くいったからって、関係ない。寂滅です。知らないうちに寂滅です。これが願いです。

「コンパクトなものが好き - 赤瀬川原平」随想二〇一一 から

カメラでも車でも、コンパクトなものが好きだ。昔のイギリス車のミニクーパーなんて、見ているだけでも楽しそうで、欲しくなる。

コンパクト願望のいちばんわかりやすい例だ。でもミニクーパーは製造中止となり、もう買えないと思うと寂しかった。こちらには買うだけの余裕もなく、第一運転免許も持っていないのに、それでももう買えないという寂しさはある。

でもしばらくすると、ドイツのBMWがそのブランドを取得して、通称BMミニが売り出された。イギリス時代より少し大きくなったが、でもやはりきっちりコンパクトだ、イギリスとはまた違うドイツ味のミニで、ぼくはそれを買うことに決めた。

とはいえやはり運転免許はないし、ガレージもないし、金だって目の前にはない。でも気持の中で勇気を出して買って、乗り回した。気持の中だけとはいえ、非常な贅沢である。贅沢というのは憧れるけど、何か落着かない。

ぼくの買ったのは銀色タイプだ。コンパクトで銀色だとよけいにフィギュアのミニカーの感じがあって、嬉しい。恰好[かつこ]いい。でも恰好いいというのも、これはなかなか落着かないものだ。

ファッションもそうだが、恰好のいいものは何かしら疲れる。恰好いいものを着ると、自分の振舞いまで恰好よくしないといけないようで、どうもそれが負担だ。

銀色の車のミニもそうで、もちろん恰好いいけど、その乗り降りから表情まで、やはり恰好よくあることをその車に望まれてしまって、それがわずらわしい。

ベンツを買うときにもそう思った。もちろん気持の中での買物だが、ベンツに乗ったら、やはりこちらもベンツらしく振舞わなければならず、それが重い。ベンツは名車であることは知っているけど、そのステータスが負担になって、これはやはり買いかけてやめた。名車というのは難しい。

アメリカ車のことをアメ車というが、これはコンパクトの反対、その代表だ。とくに昔のアメ車は無駄な大きさ、無駄な長さ、無駄な凸起[とつき]がこれ見よがしにあって、あえてそれを乗り回す、その「あえて」の快感はわかる。ある意味、痛快でもある。でもやはり自分では、気持の中のことでも、アメ車は無理だ。

カメラもできるだけコンパクトなものが欲しい。カメラなら小さいし、ガレージもいらないから、気持だけでなく現実に衝動買いをしたりもするが、なかなか思い通りの物がない。コンパクトカメラはたくさんあるけど、小さいのでこれというのが見つからない。小さいカメラは婦人向け、素人的な大衆向けと決めてかかるところがメーカーにはあるようで、小さくてしかも程度の高い物、というのが出てこないのだ。

でも考えてみて、コンパクト願望というのは、高齢化のせいもあるのだろうか。ぼくのはもともと無駄が嫌いのコンパクト願望だけど、たしかに年をとると、ことさら無駄に大きい物は持ち歩けなくなる。贅肉をできるだけそぎ落して欲しいと、カメラを見つめる。

> 家がいい例だ。若いうちは欲張って、できるだけ大きな家を建てたりする。でも年をとると、もう欲張れなくなり、家の贅肉を削りたくなる。はじめは子供が生れて、勉強部屋があったりするが、成長して家を出ると、後はがらんとする。そうじゃなくても、もう余分な見栄はたくさん、実質だけで充分、となる。久し振りに会った同級生が、もう小さい家がいいよ、とつくづく呟いていた。

そうやって実利的なコンパクト願望もあるのだけど、中には実利を超えたものもあって、それが年を取ると堂々と出てくる。自分の言動を見ていて、それをつくづく感じたりする。

ぼくは家庭内のゴミ出し係だ。この係は男性が受持つことが多い。女性は朝の寝ぼけ顔で外に出るのを嫌がる。なるほど、それは一理ある。男はねぼけ目で髪の毛が立っていても大したことはない。というのでこの役割分担となるのだろうが、男がやるとなると、そのゴミ袋をできるだけコンパクトにまとめたい。

いちばん困るのは、お惣菜などを買ったときの、あのべかべかの透明プラスチック容器だ。そのまま捨てたんではすごく嵩張[かさば]る。だから鋏で切ってコンパクト化する。基本は四角い箱だから、その稜線に沿って切るとぺたんと平面化され、驚くほど嵩が減る。

ところが相手もさるもの、あれは店頭での展示効果など考えて、ただの四角ではなくいろいろ複雑な立体にしてあるから、切るのが難しい。簡単に切ったのではまだけっこうでこぼこしていて、コンパクト化が完璧ではない。だから焦らずその立体の複雑な稜線通りに切ると、えらく時間がかかる。そんなのは凝らずに仕事に励んだ方がよほど経済的だぞ、という声もあるが、これはもう経済を超えているのだ。

缶ビールの空缶も問題だ。あれはアルミだから、手で二回折ればとりあえずはひしゃげる。でも手だけではどうしても完璧なコンパクト化はできない!話では、鉄製の足踏み式道具で、ほぼ完全にひしゃげるものがあるというが、いまはとりあえず手作業だから、どうしても潰せない部分が残る。それがどうしても不満要素として気持の隅に引掛かっている。コンパクト化はなかなか完逐できない。