「第二章 医局員のほとんどが変わっていること(抜書) - 北杜夫」どくとるマンボウ医局記 中公文庫 から

 

「第二章 医局員のほとんどが変わっていること(抜書) - 北杜夫」どくとるマンボウ医局記 中公文庫 から

医局に入ってしばらくすると、フレッシュマンはそれぞれの立場から、病理とか心理とかに自ら入るか、或いは配属される。私だけはどこにも入ろうとしなかった。毎日、患者の診察が済めば、小さな図書室の机の上で小説や空飛ぶ円盤の本ばかり読んでいた。それを妨害するのは、当時はまだ軽躁病でしょっちゅう教授室からヒョコヒョコとびだしてくる小男のM教授だけであった。今から思うと、彼があのように活動家であったのは、軽躁病のうえにナポレオン・コンプレックスも多分に加わっていたのではないかと思う。ナポレオンは小男で、軍人として風采があがらなかった。それゆえ努力して、ついに皇帝ともなったのだ。このように、インフェリオリティ・コンプレックスをうまく活用すれば、その人物を高めることができる。三島由紀夫氏も背が低かった。氏がボディ・ビルをやって肉体を強め、剣道からボクシングまでをやったのも、一種のナポレオン・コンプレックスからであろう。三島氏の文学が世界文学となったのは、そのコンプレックスによる努力によってだともいえる。
そんなふうにおよそ勉強をしないでいた私を、見るに見かねて心理室に入れたのは、ひょろりと背が高く優しいSHI助教授の親切心であったろう。しかし、正直に言ってしまえば、そこでも私は何もやりはしなかった。心理テストにも種々ある。いちばん簡単な質問形式のテストから、ロールシャッハ・テスト、クレペリン・テスト、MMPIテストなどである。だが、人間の性格がこれらのテストによって正確に浮きぼりにできるものではない。各種のテストを組み合せて、辛うじておぼろげにその人の性格が浮かびあがってくるくらいのものだ。どんな平凡な人間にせよ、それだけの複雑性を有しているからだ。また、ロールシャッハ・テストにしろ、その技術を習得するには時間がかかるし、テストする側の個人によって微妙に差が出てくる。よく有名作家の病歴などといってロールシャッハが用いられるが、その半分は当たっていないと言っても過言ではなかろう。
いちばいいいのは、やはりその患者と長く接し、長く会話を交わすことである。これ以上の性格テストは、いかに医学が発達しても現れぬであろう。私は心理室に入って、わずか二、三日にしてこの真理を見抜いてしまった。それゆえそこにずっといたとはいえ、何ひとつ心理テストについて研究はしなかった。ただ、ゾンディ・テストというものが初めて日本に入ってきたときは、ちょっとだけ興味を惹かれた。これは、ロールシャッハが意味のない図形を示すのに対し、十名ほどの人物の写真を見せて、その印象が良いか悪いかを言わせるのである。精神科医という者は、患者の顔つきを一目見て、或る程度の推量をくださねばならぬ。しかし、作家とてそれは同様である。小説こそ売れなかったが、その修業なら十年以上も私はしてきた。従って、たかが十名くらいの顔写真によるゾンディ・テストのくだらなさもたちまち見抜き、SHI助教授の意に反して、なんの研究とてしなかった。
しかし、心理室には、正式な助手ではないが、女性の研究員が二、三人いた。年と共にその数はふえ、中にはなかなかおもしろくかつ美人の助手もいたから、私は彼女らと無駄話をし、そこを去る気は起こさなかった。
もうひとつ、便利なことに、心理室にはカーテンでへだてられる小さな個室が三つほどあったからである。そこでは他人に知られずに患者の心の葛藤を話させることもできたし、精神分析療法もそこで行われた。

精神分析学は、そもそもの発祥地であるオーストリアでもドイツでも、フロイトの理論はほとんど認められなかった。ナチスの台頭は、更にそれに拍車を掛け、フロイトはロンドンに逃れる。昔から私の時代まで、日本精神医学はほとんどドイツのそれを学んできた。それゆえ、わが国でも分析学は無視され、或いは迫害されてきたものだ。
私が東北大学で精神科のインターンをやっていたとき聞いた話だが、そのときの教授の前任者が珍しく分析派であった。ところが、その教授がやめたあと、後任の教授は教室の図書室からすべての分析学の本を追放したのである。今でこそ精神分析医はふえているが、当時はそんな風潮の中であった。
その中にあって、慶應精神科の中で、一人孤独に、精神分析をやっていた老先生がいた。その名をA先生という。みんなは多少の軽蔑を含めた愛称で、アベちゃんと呼んでいた。
アベちゃんは精神分析に於ては、おそらく慶應最初の一人ではなかったか。私が入局したときにはもう看護婦たちも分析学というものを知ってはいたが、その以前はアベちゃんは彼女らの噂の種になっていたらしい。
なぜならA先生は、心理室の個室の中に女性患者を連れこんで、いつまでも出てこない。その女性患者と何をしているか分からないという噂が立ち、A先生は変態性だという評判が専らだったという。
ついでながら、精神分析についてひとこと触れておこう。
私は大学三年の頃、当時のフロイト全集をすべて読んだ。そして、心の中で膝を叩いたのであった。精神病患者の治療はこれでなければならぬ、と。薬や電気ショックなどでなく、心の病いは心で癒[なお]さねばならぬ、と。
そして、入局しつすぐに、自分流の精神分析をひそかに行ったこともあった。フロイト自由連想法では時間がかかりすぎる。要するにそれは、自由連想を簡略化して、患者にできるだけ多くを語らせるという方法であった。これは今でも精神療法として立派に通用するやり方である。
だが、同時に私は、フロイトについての新しい本、またかつて夢中で読みふけったフロイト自身の本を読み返してみた。そして、すぐに次のような結論に達した。フロイトの理論は、あまりにも自分自身の体験に影響されすぎている。その理論は文学者をこそ愉しませるが、おそろしく独断と偏見に満ちたものだということを。しかし、独断と偏見のほうが、この世ではときにより客観的に正しい意見よりも力強い影響力を持つものだ。またフロイトは初め個人をあつかったが、晩年には社会的、民族的にもその分析方法を用いたのはやはり偉大であると言ってよかろう。
だが、ぜひ言っておきたいのは、フロイト自身がノイローゼであったことだ。それで自分で工夫して自分のノイローゼを治し、その方法を拡げて分析学を創立したのである。
ユングにしろそうである。彼もまたノイローゼであり、晩年にはオカルト的になってしまった。彼の父も母もオカルト的要素を多分に持っていたから、その遺伝であろう。しかし、ユングの或る説は極めて美しい。文学的に美しい。ただ、治療の面から言えばあまり役に立たぬと思う。有体[ありてい]に言って私は、広義の精神療法は別として精神分析[アナリーゼ]というものをほとんど信用していない。

精神分析が本当に定着したのは、欧米に流れて行ったいわゆるフロイト左派と呼ばれる人たちの功績である。私は分析学を否定する者ではないが、その治療法はあまりに悠長である。分裂病を分析療法で治した例もあるが、ヤスパースも薬物との混合治療が望ましいと述べている。クロールプロマジンなどの卓効ある新薬が登場した今となっては、これはやはりノイローゼなどを主にする療法であろう。ただ患者とよく話し合うこと、広義の精神療法は、病気の種類にもよるが、何と言ってもいちばん大切なことだ。
分析医たちがやはりどこかおかしいのは、仲良く共同研究していた者が、かなりの頻度で対立して別れてゆくことからも分かる。フロイトの後継者でもあるアドラーは、フロイトユングが初め仲が良すぎたので、嫉妬の念からフロイトと別れたし、やがてユングフロイトから離れてゆく。ハンガリーのへレンチは、フロイトが患者を診るにも分別を守り、たとえば一週間に一度しか診察室で会ってはならぬことを強調したのに対し(つまりフロイトはアベちゃんではないが、女患者とのスキャンダルを恐れたのである)、患者を家に招いたり共同生活をしてもよいと、主張し、フロイトの同意が得られずこれまた訣別した。
フロイトの弟子ジョーンズは、フロイトがロンドンに逃れる助けをし、また師のアメリカ講演旅行の準備をしたり、精神分析英語圏に拡めた功のあった人である。しかし、彼はあまりに分析学を自分の手で独占しようとした。進化論と同様、或る思想なり理論が生まれるときは、一人の個人の力だけではなく、社会一般にその風潮がひろがっているものだ。アメリカでは、マーガレット・ミードなど社会学民族学の学者が分析学を取り入れた。
忘れてならぬ分析医に、アメリカのサリバン、デンマークエリクソン、フランスのラカンなどがいる。わが国では私の入局当時かなりの訳著が出たフロムやメニンガー(メニンジャーと訳されている)などを世間の人が読んだものだが、前者は私の参考になったが、後者から得たものはほとんどないと言ってよかろう。
わが国の分析医たちも、ほとんどが大なり小なりノイローゼであった。そして分析療法を受け、その結果分析学を覚え、やがて分析医になるのである。まともな者はごく少ない。
しかし、私はまともでないことを悪いと言っているのではない。大宇宙は曖昧で矛盾に満ちている。そこから生まれた人間にせよ、それに似た生物である。それに、正常[ノーマル]というものほど、この世で平凡で退屈でつまらぬものはないのではあるまいか。
こう記すと、世の人びとの中には不満に思う者もいるであろうから、有史上もっとも賢人であったと思われるソクラテスの言葉を記しておこう。ソクラテスは一冊の本も残さなかった。従ってプラトンの『パイドラス』からの引用。
「われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、そのもっとも偉大なものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。(注・時代的に神が出てくるが、現代人は他の意味に置きかえて頂きたい。)まことに、デルポイの巫女も、ドドネの聖女たちも、その心の狂ったときにこそ、ギリシャの国々のためにも、ギリシャ人のひとりびとりのためにも、実に数多くの立派なことをなしとげたのであった。だが、正気のときには、彼女たちはほんのわずかなことしか為さなかったし、或いはぜんぜん何もしなかったと言ってよいのである」
とにかく精神分析は、アメリカで大きく開花した。近頃はやや衰えているが、一時は分析医にかかることがインテリの証とも言われるようになったのである。