(巻三十五)耳すこし遠くなりしか蚯蚓鳴く(中塚久恵)

(巻三十五)耳すこし遠くなりしか蚯蚓鳴く(中塚久恵)

11月11日金曜日

穏やかな秋の朝です。耳は少し遠くなっているようです。イヤホンの音量が右と左とでちがい、右耳の方が衰えている。話すときの声も大きくなってきたようだ。

パソコンにも携帯にもパソコンの広告がワンサカ入って来るが、他の広告よりはましなので、あえて詳細を開いて引き付けている。

朝家事は毛布干しだけ。細君は生協へ。

昼飯(昨晩の残りの牛と納豆)を喰って、アリオへ出かけた。与えられた任務①は紀伊國屋書店で『藤井旭天文年鑑2023年-誠文堂新光社』の予約をすること、②はヨーカ堂の家庭用品売場で風呂の椅子、風呂のブラシ、トイレのブラシを内偵することであった。

都住3、田中商店、環七のコースをとり都住3でクロちゃんに遊んでもらってからアリオへ向かう。

環七口からアリオに入る。金曜日の午後だがそれほど混んではいない。入口から近いヨーカ堂3階の家庭用売場に上がったが殊に家庭用売場は空いていた。任務に掲げた三点についてはニトリ、ダイソウ、ツルハの三店で内偵済みだが、細君所望の物に最も近い品はここヨーカ堂にあった。

ヨーカ堂の家庭用売場から2階へ降りて一番北側にある紀伊國屋へ参り、精算コーナーで要件告げた。取り扱いの確認後、受託。確認スリップをいただく。

私はこの手のモールに興味はないのでさっさと退去し、隣の香取神社で銀杏の色具合など愛でる。(一撮)

そこから駅前まで歩き、銀行のATMでヘソクリから二万下ろす。今、酒が旨い!旨いときに呑もう‼

そこから銀座通りを下って蕎麦屋の寿々喜に入った。ここのところ煮込みなどシツコイものが多かったので、さらっと蕎麦で一杯といたした。ザルに大関一合。お新香で酒を呑んでいるうちな蕎麦が来る。この店は海苔をふんだんに付けてくれるので心豊かにザルをいただける。

かの人のその後のことを走り蕎麦(宇多喜代子)

帰りも都住3に寄り、クロちゃん、サンちゃん、フジちゃんの三匹にスナックをふるまう。

三匹それぞれに個性がちがう。

最後に図書館により『怠惰の美徳-梅崎春生(中公文庫)』を借りて帰宅致す。

昨日は二合飲んで寝るまで醒めずに困ったが、今日は一合にしておいた。

酔浅くまだ行儀よし秋扇(中村伸郎)

願い事-涅槃寂滅です。酒が旨くても寂滅です。酒に未練はございません。

「無題 ー 立川談志」文春文庫 そばと私 から

「オイ、どうでぇ、縄ァたぐって、湯でも入(へえ)るか」.....なんていう会話を、江戸っ子はよくしたという。

“ 縄ァたぐる”とは、そばをたべることでなんとも江戸っ子の職人衆らしい、イキで、乱暴な、いい言葉だ。

吉原へ遊びにいっての朝帰りに、不忍の池の連玉庵で、“ぽかっ”と開く蓮の花を見ながら、縄ァたぐるっていう図なんざァ、さぞかしオツなもんだったろう。

腰の強い細いそばを、安くてオツなのせもの(くいもの)として、江戸っ子は仲良くしていたのだ。湯銭と同じぐらいの値段だったというのも気に入っていた。

サツマ芋をドヂ棒と呼ぶ彼等は、逆にうどんをヤボなたべものとしていた。

噺の中に「宿屋の富」という名作があって主人公の文無しが、宿屋の主人に大きなことを吹く。その揚句、一分で富の札を買わされたところ、何とその札が千両富に当るというお馴染みの一席だが、その中で、主人公が椙(すぎ)の森神社へ出掛けていくと、富の当日で一杯の人、ワァワァ、ガヤガヤ騒いでいる。

“千両当てたいですネ”

“いや、私しや千両当らない”

“どうして.....”

“昨夜(ゆん)べ神様が夢枕に立っていうのにやァ、今回は都合によって千両は駄目だ、その代り、二の富の五百両を当ててやると言われてネ”

“ホントかい、で五百両当ったら、どうするの?”

と聞かれてその男は大きな財布をこさえて、これに小粒に替えた五百両を入れて吉原へ、女を身受けして、どっかへ囲って、朝起きて湯に入って、帰ってくると、一杯のんで、女と寝て.....と夢の世界を、さも目の前に五百両があるかの如く語る。聞いてる連中が、

> “そりゃア、当ってからの話だろ”

“当らなかったら、どうするんだいッ”

“うどんを食って寝ちゃう”

というわけだが、この「うどん」が実にいい。つまり、吉原の女を身受けするというイキな栄華に対して、いかにも野暮な現実があるわけで、同じ値段のたべものでも、これが「そば」となると、イキに聞えてくすぐり(ギャグ)にならないのだ。

もっとも本来は、上方の「高津の富」という噺を江戸前に改作したのだから、関西で、ただ安いものというだけの意味で「うどん」といったのかも知れない。

別に関西では、うどんはそれほど野暮なものとはしていない筈である。ところが、これを関東で演じると、なんとも「うどん」が可笑しいのだ。

この他にも、そばを扱った噺に、そばを何十枚もたべる、そば喰い競争のチャンピオンになった清(せい)さんの「そば清」、お馴染みの勘定を一文誤魔化す「時そば」、殿様が御手製のそばを家来衆にたべさせ、家来一同を大いに悩ます「そばの殿様」など多い。

> しかしこのイキなたべもののそばが、近頃イキでなくなっちゃった。

> 店の中をイキな造りに替えて、イキを気取って、法外な値をとる老舗づらしたそば屋が多い。曰く、「本場ナニナニそば」と、いう手合である。

> 中には、ざるそば一枚四、五百円もとろうなんていうべら棒な店もあるという。そばの奴ァ、さぞかし肩身の狭い真似をしているだろうと、私は思う。

麻布の長寿庵の八十円の「かけ」は美味しい。気取りなんてまるでない。並みの街のそば屋だ。もっとも八十円ぢやァ、気取ろうたって無理かも知れないが.....とにかく結構な舌ざわりだ。(つゆがチト甘いのが荷だが)

私は弟子をこの店へ連れていって言う。

“いいか、噺家なんだから、そばの美味しいのをよく覚えておけよ”

そしてその縄のたぐり方に、いちいち注文をつける。

“こら、そばを途中で喰いちぎる奴があるか、汁(つゆ)の中にそばを落として、かきまぜる奴があるかよォ、そんなにたっぷりつゆをつけるな、ドヂな奴めッ”

“残すんぢゃないよ、そばを残すベラ棒があるか。ライスカレーはどうくってもいいが、そばはちゃんとイキに喰え”

.....てなもんである。

江戸の小噺に、そばっ喰いが死に際に一言いう。“一度でいいから、つゆをたっぷりつけて、そばを喰いたかった”

そばって奴ァ、イキなんだよ、イキがって喰うものなんだよ-