「俳句と詞書(選) - 堀本裕樹」新潮文庫 短歌と俳句の五十番勝負 から

 

「俳句と詞書(選) - 堀本裕樹」新潮文庫 短歌と俳句の五十番勝負 から

〔お題=まぶた〕
料峭[りようしよう]やかもめと瞼閉づるとき(堀本裕樹)

かもめと聴いて思い浮かぶ作品は、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』か、チェーホフの『かもめ』あたりだろうか。
僕はここに寺山修司の一首である「人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ」をつけ加えたい。しかし、「ただ一問の質問」とはいったいどんな質問なのか。
「あなたは生きるのか、それとも死ぬのか」という究極の質問が頭を過[よ]ぎる。普段平和な日本で安穏と暮らしている最中にこんな質問をされたら、「生きるに決まってるよ」と一蹴してしまうだろうが、人間がどうしようもない状況に追い込まれたときに果たしてどうだろう。重病に罹[かか]ったり、戦争や災害に巻き込まれたり、計り知れぬ失望や悲しみに襲われたとき、おのれと徹底的に向き合わなければいけない場面に立たされたときにこそ、「あなたは生きるのか、それとも死ぬのか」の「ただ一問の質問」が現実味を増して胸臆[きようおく]に突き刺さってくる。寺山の「二月のかもめ」は、荒波の飛沫[ひまつ]を浴びながら生死のあわいを縫うように飛ぶかもめに僕には見える。そういえは、『かもめのジョナサン』も『かもめ』も死の象徴のようにかもめが描かれている。
さて、掲句のかもめはどうだろうか。
期せずして「瞼[まぶた]閉づる」と死に繋がる表現になった。「料峭[りようしよう]」は春の季語で、春風がまた寒く感じられることをいう。「かもめと」一緒に自分も瞼を閉じて肌寒い風を感じている。その一瞬の死に通ずる恍惚感、かもめとの不思議な一体感は、引く波の音とともにたちまちのうちに吹き消されてゆくのである。

 

〔お題=流れ〕
わが胸へ流れ弾なす金亀虫(堀本裕樹)

亀虫[こがねむし]は、夏の夜の風物詩として幼い頃から親しんできた。故郷である紀州の家で夜中、窓を開けていると、電灯に向かって飛んできたりする。その羽音がなかなか凄まじい。一瞬、ハッとするほどの唸りを発する。かなぶんとかぶんぶん虫とかの別称も納得である。
電灯にパチンとぶち当たったかと思うと、しばらくぶつかり続けるやつもいれば、急に勢いをなくして床や机に落ちてしまうやつもいる。正体がわかると、「なんだ、金亀虫か」と安心するのだが、羽音だけだと何か不穏なものを含んでいるように聞こえるのだ。
金亀子擲[なげう]つ闇の深さかな(高浜虚子)
この句は家中に飛び込んできた金亀虫を投げ捨てる場面である。注目したいのが「闇の深さ」だ。明治四十一年に詠まれた当時は、日常に「闇の深さ」があったのだろう。だが、当世では山深い田舎であればいざ知らず、都会やベッドタウンでは真の闇は真夜中であっても見受けられない。必ず街灯や店舗の灯りがある。森や林の減少により、金亀虫が飛んでくるのも稀であろう。そう考えると、虚子の句に詠まれた状況を肌で感じて理解できる人は、どんどん減りつつあるともいえる。金亀虫との些細な触れ合いであるが、この句のような経験も大事ではないかと思う。
さて、僕の句だが電灯に向かわずにたまに流れ弾のように人間に向かってくるやつもいる。また、田舎でバイクに乗っていると、運転中の躯やヘルメットに金亀虫が正面衝突してくることもあり、そんな場面を詠んでみた。金属っぽい光沢の金亀虫の飛び様はまさに弾丸のようである。

 

〔お題=腹〕
蟷螂の鋭[と]き眼に腹を見抜かるる(堀本裕樹)

蟷螂の顔つきはどこか人間臭い。
不意に「かまきり夫人」という言葉が思い浮かぶが(電子辞書には載っていなかったので、インターネットで検索してみると、一九七五年に公開されたポルノ映画「五月みどりのかまきり夫人の告白」が多数出てきた。そこから広まった言葉なのだろうか。その映画は観たことがないけれど、いつの間にか魔性の女たる「かまきり夫人」のイメージが頭に刷り込まれているのがちょっと不思議である)、蟷螂は交尾が終わったあと、雌が雄をむしゃむしゃ食い殺してしまう恐ろしい習性がある。
蟷螂のをりをり人に似たりけり(相生垣瓜人)
この句のように、蟷螂の動作が、時折人間に似ているなと思うことが確かにある。人間には蟷螂のように鎌状[かま]の手(に見えるが、実は前肢)はないにもかかわらず、あれを小首をかしげながらねぶる仕草一つ取っても、妙に人間臭く見えるのはなぜだろうか。
墜ち蟷螂だまつて抱腹絶倒せり(中村草田男)
『俳句歳時記』の例句に載っている作品も、擬人化されて詠まれた蟷螂が多い。地面に墜落した蟷螂が仰向けになって、脚をもぞもぞさせてなかなか起き上がれないでいるのだろう。その姿態を腹を抱えながら大笑いしていると、まるで漫画のように描き出した。蟷螂は声を発さないので、「だまつて」なのである。そのディテールの描き方に、蟷螂の悲哀まで滲んでくるから俳句の余白は侮[あなど]れない。
僕の句は、蟷螂の鋭利な眼でじっと睨まれている状態だ。あの真っ直ぐに澄んだともいえる眼差しに、どこかしらこちらの腹を見抜かれているようにも感じられる。この蟷螂はやはり、魔性の雌かもしれない。

 

〔お題=ふるえる〕
鳥交る天のふるへてゐたりけり(堀本裕樹)

「鳥交[さか]る」とは、鳥の交尾のことでなんだかどきりとさせられるけれど、春には「猫の恋」なんていう繁殖期の季語もある。
動物の求愛行動までも季語にして詠もうとする俳人は、並々ならぬ好奇心の持ち主であるとともに、ある種の凄みさえも感じさせる。
僕も俳人であるが、もちろん自身を褒めたたえているのではなく、まだ俳諧連歌と呼ばれていた頃の遥かむかしの先輩方が、鳥や猫の発情を面白がり、句材に「季の詞[ことば]」として取り入れたことが、まことにあっぱれだと敬服するのである。それは和歌や連歌で扱われた「鹿の恋」の雅[みやび]に対しての、「鳥の恋」「猫の恋」の鄙[ひな]びであり、アンチ・テーゼでもあって、俳諧精神の滑稽かつ新しさの探求ともいえるだろう。
そのことも真空のなかや鳥交る(森澄雄)
鳥は地面や枝に止まってもねんごろになるが、この句に描かれているように空中でも交わる。「そのこと」という表現が、なんとも奥床しい。「真空」の「真」は接頭語であり空の美しさを讃える響きを持っている。同時に、その真っ青な空での鳥の恋模様も尊いものとして映し出されているのだ。切字の「や」は、人間には到底まねのできない離れ業ともいえる空中での行為を見上げるように詠嘆しているのである。
僕の句も「そのこと」は空中で行われている光景だ。実際歓喜にふるえているのは鳥の番[つがい]のほうだけれど、それを反転して詠んでみた。二羽の熱烈な恋の顫動[せんどう]に、天も光り輝きながらふるえ、ふるえながら蒼く煌[きらめ]いているのである。