(巻三十五)平手打ちの頬の痛さに凍れけり(笠井操)

(巻三十五)平手打ちの頬の痛さに凍れけり(笠井操)

12月16日金曜日

浮気でもしたんだろ?当家は幸いそのことに関しても波風立たずにここまできた。数少ない経験ではあるが、女というのもいい加減なものだと思う。

にがき夢二人みるため来た部屋の

ベッドのわきのシャガールの馬(谷岡亜紀)

今朝は寒さが少し弛んだように感じた。朝家事は洗濯と毛布干し。

生協から戻った細君が「お正月は栗なしにするわ!」という。一瓶10個入りが二千円だそうだ。「あんたも行ったら見てらっしゃい。」と云うので納豆、牛乳、ヨーグルトを買いに行って見てきた。無くてよい。旨いと思って喰ってきたものではないし。

味噌しようゆ切らさぬほどの年用意(園部佳成)

昼飯食って、一息入れて、散歩に出かけた。快晴、無風でサンちゃんは階段したの日溜まりで目を細めて座っていた。木枯しの日に飲むよりは今日のような日に飲もうと菜香館を目指し、2時に入店。黒酢豚で二合頂いた。今年の黒酢豚の締めだ。帰りはさと村の前を通って曳舟川を下り、コンちゃんに挨拶をと前を通ったが、飼い主がいたのでパス。往きにいなかったクロちゃんに会いに行き、二袋。今日は「これでおしまい!」と云うと聞き分けよく身繕いを始めた。

新道と桜通りの交差するところの桜通りの影にパトカーが潜んでいて、目の前で一台罠に嵌まっていた。運転免許を持っている人とない人では警察という権力に対する認識に違いがあるだろうな。

警官の隠どころの青芒(千葉皓史)

願い事-とにかく涅槃寂滅です。煮込みも喰ったし、黒酢豚も喰ったし、ホッピーも飲んだし、酒も飲んだ。チョコレートケーキを食えば思い残すことはない。いや、旨いカツカレーも喰っておきたいし、海鮮丼も喰っておきたい。でも食えなくても、それはそれでいいから、涅槃寂滅でお願いします。

「俳句と詞書(選) - 堀本裕樹」新潮文庫 短歌と俳句の五十番勝負 から

を読んだ。

《僕も俳人であるが、もちろん自身を褒めたたえているのではなく、まだ俳諧連歌と呼ばれていた頃の遥かむかしの先輩方が、鳥や猫の発情を面白がり、句材に「季の詞[ことば]」として取り入れたことが、まことにあっぱれだと敬服するのである。それは和歌や連歌で扱われた「鹿の恋」の雅[みやび]に対しての、「鳥の恋」「猫の恋」の鄙[ひな]びであり、アンチ・テーゼでもあって、俳諧精神の滑稽かつ新しさの探求ともいえるだろう。》

ほか、そうか⁉そうか‼と拝読した。そして初めて読んだ俳論、

「携帯から始まる新たな表現 - 森村誠一講談社刊 人生の究極 から

を再読した。

魂の破片ばかりや秋の雲(森村誠一)

https://nprtheeconomistworld.hatenablog.com/entry/2022/09/07/074251

私の駄句は上記でご覧いただけます。

「携帯から始まる新たな表現 - 森村誠一講談社刊 人生の究極 から

小説を書いていると運動不足に陥る。デスクに向かって逡巡していても、あるいは快調に筆が進んでいても、数時間、同じ姿勢を固定していることが多い。肩こり、書痙(しょけい)、腰痛などは作家の職業病である。

だが、激しい運動をすると、興奮が残ったり、眠くなったりして、その後の執筆に影響する。

運動不足を解消するために散歩をするようになった。なんの準備をする必要もなく、家の周辺を歩きまわる。晴れた日、雨の日、また季節や時間帯によって、A、B、C、三コースに分けて歩く。同じコースであっても、季節や時間帯や天候などによって風景が変わる。

だが、どんなに変わったところで、住居を中心とした生活圏内はたかが知れている。漫然と歩いていると、次第に飽きてくる。

そこで歩きながら俳句を詠むようになった。五・七・五、十七音の一行詩であるので、巧拙は別にして、だれでも気軽に詠める。読者から作家にこれほど簡単になれる文芸ジャンルはほかにはない。それだけに巧拙の差が大きい。

なにしろ十七音しか使えないので、俳句にはいろいろな約束事や、文法が多い。だが、初心者は文法は後まわしにして、見たまま、感じたままを十七音にまとめればよい。

例えば - 朝起きて顔を洗って散歩した -

これでも一応俳句になっている。

散歩中出会った風景や、人間、動・植物などに、これは俳句になりそうだという予感が走るようになってきた。その場で起句することもあれば、帰宅してから句作することもある。だが、予感が走っても、時間が経過すると、その句境、句材を忘れてしまうことがある。

そこでカメラを携帯して、句境、句材になりそうな場面や被写体を撮影するようになった。写真が保存する情報量は圧倒的に豊富である。先写後吟、あるいはその逆でもかまわない。

写真を見ながら句作することも多くなった。そのうちに、ただ起句するだけでは面白くなくなって、写真を添付して、ブログに掲載した。

そのとき、凡写・凡句であっても、両者をジョイントすると、凡句が生き生きと立ち上がり、凡写が精彩を放つことに気がついた。

写真俳句は以前にもあったが、おおむね古典俳句に現代の写真家が写真を添付するケースが多かった。私の場合は、同一人物が起句し、写真撮影するのであるから、俳句と写真の相性は抜群によい。これに

エッセイをつけて本にまとめたところ、圧倒的多数の読者の支持を得た。

写真俳句の妙は、凡写・凡句が合体して、窯変(ようへんー予想もしないものに化ける一種の化学変化)するところに醍醐味がある。俳句や写真の約束事に縛られず、自由気ままに撮影して、これを合体すると、まったく新しい表現世界が展開するのである。

> 今日ではほとんどすべての人が携帯を所持している。つまり、カメラを自動的に携帯していることになる。大多数の人が写真俳句の潜在人口といえよう。

だが、創作者の常として、さらによい俳句を詠み、優れた写真を撮りたくなってくる。単なる五・七・五の韻を踏み、携帯で撮影するだけでは物足りなくなってくる。そのうちに上達して、ものの見方が深くなってくるのである。

前掲の「朝起きて顔を洗って散歩した」に止まらず、もっと踏み込みたくなってくる。十七音ではあっても、朝起きてから散歩したまでの報告にすぎない。写真も俳句の説明に終わっている。これに俳句の生命を吹き込むにはどうすればよいか。

まず、季語を入れてみよう。「朝起きて」は「霞立つ」、あるいは「霧立つや」に替えてみる。これだけで春、または秋の朝の風景がダイナミックに立ち上がってくる。

すると、顔を洗っただけではそれこそ作者の顔が見えない。これを「昨日を拒む今日があり」としてみよう。すると、毎日毎日、同じような繰り返しの朝が、俄然、今日は昨日とはちがった一日にしてみせるぞという作者の覚悟が示される。

これに霞立ち、あるいは朝霧の揺れる写真を添 付すれば、その霞と霧の奥にスタンバイしている今日という新しい一日に寄せる期待が弾んでいる。これぞ、まさに写真俳句の世界で、だれでも踏み込める、あらゆる可能性に満ちた未知の表現世界なのである。

準備はなにもいらない。携帯は我が身の一部のように常に“携帯”している。屋内でも写真俳句は可能であるが、句材と被写体が限られる。一歩外に踏み出せば、見慣れた風物であっても無限の表現世界が開く。高速度交通機関を結べば、写真俳句の進化と共に、人生が窯変していく。

まず、お勧めは自宅を拠点とした近所から、自転車に乗って徐々に行動範囲(写俳範囲)を拡大していくことである。