(巻三十五)ビール注ぎ何を言ひ出すやも知れず(山田弘子)

(巻三十五)ビール注ぎ何を言ひ出すやも知れず(山田弘子)

 

12月15日木曜日

睡眠は十分取れている。そのためであろうか、夢が濃い。

快晴。朝家事はガラス窓の敷居掃除、衣類の風通しと黴点検。吸湿剤1個と防虫剤2個を交換。他に毛布干し。

昼飯食って、一息入れてから、細君御下命の洗濯機の糸屑フィルターを買いに区役所そばのビックカメラに出かけた。

所望の品は在庫になく、一週間後に連絡とのことで前払い予約。ついでにヘッドフォン売場を流してみた。もはやイヤホンジャックのヘッドフォンは絶滅品種となったようでチョロチョロとあるだけだ。買うなら今でしょ!ということで1480円のを買った。音質とかはどうでもよいのだ。主眼は雑音排除なのだ。

量販店から区役所商店街を歩いて立石駅近くのモツ焼き屋を目指した。 

ネットでは、“宇ち多”という店がチヤホヤされているので、前まで行ってみた。3時だがかなりの行列ができていた。並ぶ気には為らず、天下泰平酒場二号店でいこうかと思い歩いていると「串八珍」という焼鳥屋があり。貼り出されていた品書きを見ると豚もあるようなので入ってみた。

客はまだ居らず、テレビのうるさい店だ。

一人なのでカウンターに座ろうとしたら、テーブル席をすすめられた。この時間は一人でやっているようで客と対面で仕事は嫌なのだろう。こちらだって嫌だ。テレビに背を向けて二人用のテーブルに着く。

飲み物の注文を取りに来たので黒ホッピーを頼み、煮込みとタン塩二本をトントンと頼んだ。直ぐにホッピーと付きだしの大根おろしが出た。大根おろしの食い方を訊いたら、“お好きなように”というので最後の口直しにすることにした。テレビからは制作費を抑える事だけを主眼としたニュース擬きの番組が流されていてその末路が憐れを誘う。早速、買ったばかりのヘッドフォンを耳に当て雑音を遮る。

350円の煮込みが届く。ボリュームは妥当、味は悪くないし、葱が山盛りなのはよいがモツが少ない。タン塩が届く。これは肉厚で良し。ホッピーの中を頼み、タン塩を堪能した。気が付けばホッピーを三分の一残してしまった計画の無さに慚愧。慚愧ついでに中を再度お代わりし、その悪循環でレバ塩を二本追加した。ヘッドフォンから『越路吹雪愛の讃歌』が流れてきたのを機に席を立ち勘定とした。覚悟して五千円札を用意して備えたところ、2180円とのことなので二千円と二百円を出して大いに喜んだ。この店、悪くない‼

心地よくバスに乗り、降りて遅くなったがクロちゃんを訪ねる。クロちゃんはいつものところにいていつものように伸びをしてから駆け寄ってきた。呑んで帰って遅くなってごめん、という

負い目から求められるままに4袋あげてしまった。

帰宅して顔本を読んでいたら「地域猫」という言葉が出てきた。クロちゃんや、サンちゃんや、フジちゃんや、コンちゃんはこの法律上の「地域猫」に該当する身分を持っているようで、餌を与えることに違法性はないようだ‼

願い事-涅槃寂滅です。死の欲動の根っ子は究極の安定だとの高説があるが、安定は欲しいなあ。安穏は更によし。

量販店の契約コーナーに一撮の掲示があった。戸建ては戸建てで維持が大変だ。戸建てから借家に転居して近所付き合いもなく気楽になった。が、不安定ではある。そんな事を思いながら、気休めに

「借家と持家(後半) - 諸井薫」

読み直してみた。

 

「借家と持家(後半) - 諸井薫」河出書房新社 男の節目 から

 

それはさておき、戦後日本は戦前の借家文化から、一気に持家文化に逆転した。

焼跡から奇跡的な経済復興、朝鮮戦争特需をバネに高度成長が日本の産業を戦前以上の規模に巨大化させ、個々の企業の業績は急カーブに右肩上がりを持続し、内部留保もふくれ上がった。

そのあたりから、多くの企業が持家制度を作り、社員に低利、長期弁済の住宅購入資金を貸し付けるのが一つの流行となった。

都営や公団の、エレベーターのないアパートですら、抽選で入れた人は少なく、大多数は木造モルタル二階建、トイレ共用といった私営アパートで、それこそ“兎小屋”的生活に甘んじていたのが、一気に“城持大名”になれたのだ。その名もマンション、しかも区分所有ながら土地付きである。それこそ夢のまた夢だったに違いない。

そしてバブル全盛期、右肩上がりがいつまでも続くという甘い展望と、低金利をいいことに、億ションと呼ばれる分不相応な高級マンションへの住み替えが流行し、そこへ青天の霹靂のような大不況の乱気流に突っ込み、元も子もなくしてレンタル・アパートに逆戻りという、悪夢のような現実に遭遇した話も随分と耳にした。

いや、かりにそんなバブルに浮かされることなく、地道にやってきた人達にとっても、“持家”は、思いも寄らぬツケをつきつけてきた。

考えてみれば当たり前のことなのだが、木造一戸建、コンクリート集合住宅の別なく、家には耐用年数というものがあって、それが過ぎれば建替えるか、大幅に手を加えなければならなくなる。しかもその耐用年数なるもの、コンクリート住宅なら六十年といわれてそれを真に受けているととんでもないことになる。

確かにコンクリートの躯体自体は雨露をしのいでくれるが、給排水設備は悪臭を発し、外壁は見るも無残な廃屋の様相に様変わりしてしまう。もちろんこうなったら売ろうにも買い手はつかず、それに売れたとしても二束三文で、買替え物件の頭金にもならない。

しかも、買ったのが昭和四十年代の前半、そろそろ三十年経とうとしているわけで、当人も定年、もしくは定年直前で、これからその建替え資金や買替え資金を作ろうにも、手立てがない。第一金融機関のローンの条件は七十歳までに完済というのが普通だ。

となると、排水管からの下水の悪臭に耐え、住人同様、老い朽ちの兆候顕著な古いマンションを“終の棲家”とするしかなくなる。なんのために爪に火をともすようにして営々三十年もローンを払い続けてきたのかと、持って行き場のない忿懣に腹が煮えるのである。

 

男の住んでいる界隈は、昭和二十年代はまだ原っぱや畑があちこちにあって、家はそんなに建っていなかった。

男のところもそうだが、男の家の向う三軒両隣は、いずれも昭和三十年代半ばに建った木造一戸建で、土地は四十坪ばかりだ。だが昭和三十年代に家を建てたということは、その当主は若くしても六十代半ば、平均的には七十代半ば過ぎだから、ほとんどの家が、すでに子供達は別家し、老夫婦二人暮しである。

人様の内実を窺うべくもないが、どうやら退職金の残りプラス年金で暮しを立てている様子だ。そうではないかと思う根拠は、築後三十五年、しかもその当時は建材もたいしたものではなかったから傷みも早く、築後五十年といわれてもさもあらんという老朽ぶりだが、それに手を加えようという形跡がまったく見えないところだ。

あの頃建った家がすぐそれと知れるのは、コンクリートブロックを積んだ塀が当時の流行りで、それがみすぼらしく変色している点で共通しているということである。

男の家の前の道路に面して横並びに六軒ほどの似たような大きさの家が並んでいるが、その家から出入りするのは年寄りばかりで、男は自分のことを棚に上げて、この通りをひそかに“黄昏通り”と呼んでいる。

その六軒の古びた家の中で、男のところだけ建替えて新しく、それが妙に際立つが、男にはかえって肩身が狭い。

なにしろ、通気性が悪いということもあって、北向きの風呂場と便所の傷みがひどく、とくに風呂は白アリにやられて、このまま放っておくと家全体が駄目になる可能性を指摘され、前後の見境なく建替えに踏み切ったというわけだ。いまからざっと六年前、還暦寸前である。残りの人生を考えれば無謀の挙にちがいなく、現役引退後十年に及んでの月々三十万余りの建築資金の分割返済にしても、裏付けあってのことではない。

しかも、家を建直したりするととかくその家の主の身によからぬことが起きる、という言い伝えもある。

男はそれらのすべてに目をつむって強行したが、案の定、家が出来上がった翌年の夏、突然大量吐血して胃の切除手術を受ける羽目になった。その手術自体はうまくいき、ひと月あまりで退院出来たが、男の気持の張りは消えた。まだまだ頑張り続けて、もうひと花もふた花も咲かせてやるんだ、という気力がガスが抜けるように雲散霧消してしまったのだ。

つまり、これから先いつお迎えがきても不思議はないのだから、そのつもりで生きなければ、という思いが、嘘のように気持を退嬰的にしてしまうのである。

そういえば、男の兄も数えの厄年で急性心不全で死んだが、このときも、家を改築した直後たった。

男は、そんな迷信めいた符合をまるまる信じるつもりはなかったが、家の改築が男の一生の重要な節目であることを、しかと思い知らされたものだった。

戦前のように借家が普通だったら、ヤドカリが自分の体の変化に合わせて次々と貝を変えていくように、家を移り住んでいけば、こうした節目で悩むこともないのだろうが、下手にケチな家を所有してしまったせいで、ひとつ歯車が狂うと、その家に人生を振り回されることになりかねない。

男は、その“黄昏通り”を犬を連れて歩きながら、一軒だけ白々しく新しいわが家から目をそむけ、古びの増すばかりの家並みの、見慣れた落着きの中で、ひっそりと年相応に生きている老夫婦の無理のなさに、ふと羨望を覚えるのである。