「三十人の「きせきの人」たち - 矢吹清人」03年版ベスト・エッセイ集 から

 

「三十人の「きせきの人」たち - 矢吹清人」03年版ベスト・エッセイ集 から

「きせきの人」は、ヘレン・ケラーを描いた「奇跡の人」ではなく、「鬼籍の人」たちのことである。町の開業医の勉強会「実地医家のための会」のターミナル・ケアの共同調査の資料を作るために調べたところ、矢吹病院でこの五年間に亡くなった人たちのうち、三十名が、癌または、治療困難な慢性疾患、あるいは老衰といった、いわゆるターミナルの状態で亡くなった人たちで、とくに、家から病院までの距離が一キロメートル以内で、八十歳台の癌の患者さんが多かった。
この三十名のほとんどは、元気なころから、常々、笑いながら、しかしマジメに、最期は矢吹病院で苦しまないようにお願いしたいと言っていた人たちばかり、つまり延命治療は行わず、自然に寿命を全うする尊厳死を希望して
いた人たちである。当院のファンである。その念願が叶ったのだから「いい死に方」だったのかもしれない。しかし、そうはいっても不治の病でこれから最後を迎えなければならないご本人の心境は、けっして愉快であろうはずがない。できればポックリいきたいと思っていたのが、運悪くやむをえず、一カ月から年余にわたって病院のベッドで苦しむことになったのであるから不愉快極まりない事態である。
ぼくたち医師の仕事は、死にいく人ばかりに限らず、さまざまな苦痛や不安や不満を持った人たちを相手の「不愉快産業」であることを自覚すれば、どんなに良いホスピスでも立派な緩和ケア病棟でも、患者さんを心底から喜ばせたり幸せにすることはたいへん難しい。三十人の人たちにも、良いことをするというよりは、それぞれの心身の不愉快の種をできるだけ取り除くことを主眼にお世話をした。いま振り返って入院カルテを見ると、ぼくが書いた経過記録よりも看護師諸君が書いた記録が断然光っていて、患者さんの訴えや表情を生き生きと伝えている。末期になればなるほど頻繁にナースコールを押す患者さんの不安と苦痛が紙面から浮かび上がってくる。
山田風太郎先生をまねて、カルテから、これらの人たちの「最後の飲食物」・「最後のことば」を拾ってみよう。記録に記載してある範囲での最後のものであるから、本当の最後かどうかはわからないが、その雰囲気は生々しく伝わってきて悲しい。
最後の飲食物には、
「アイスクリーム」「砂糖水」「桃のジュース」「重湯」「おかゆ」「ごはん」「ピーチゼリー」「プリン」「びわ」「水」(これがいちばん多い)、そして「シュークリーム」などがある。
Aおばちゃんは、その日はとても元気で、家族が買ってきた大きなシュークリームを残さずにペロリと食べて、
「あーおいしかった」
と言って、次の朝大往生を遂げた。明治生まれのAさんにとって、子供のときに初めて食べたシュークリームの味が忘れられなくて、これを最後の晩餐に選んだのかもしれない。
最後のことばとしては、
「アイスを食べたい」「薬はのまない」「飴なめたい」「肩がいたい」「足がいたい」「アーアー」「ウーウー」「だるい」「さびしい」「水のみたい」「早く死にたい楽にして」「ごはんいらない」「天気いいね」「○○子(娘さんの名前)」「(お父さんと呼ばれて)ハイッ!」「(笑って)暑い」「そう長くは生きられない」「家に帰りたい」、そして「夕べは死ぬかと思った」……などである。

カルテを眺めているとその人の顔が浮かんでくる。巨大な胃癌が見つかったが、手術を希望せず、二年あまりを生きて、最後に入院したBさん。なんの苦しみもなく眠るように亡くなった「大往生大賞」のCさん。町内のDさん、うちがちょうど町内の班長をしていて、その任期が済むまでは元気でいてもらいたいとひそかに願っていたが、縁があって、お葬式まで面倒をみることになってしまった。
ひとり暮らしのEさん。はっきりとした尊厳死希望で、くりかえし「延命治療」を拒否すると言っていた方である。腎機能が悪化したが、透析を希望せず、
「このままでは尿毒症になって昏睡状態になります」
と説明したら、
「あーよかった」
と笑い、再度、人工呼吸や電気ショックを絶対にやらないでほしいと念を押して、間もなく昏睡となり亡くなった。
Fさん。尊厳死協会会員。熱心なクリスチャン。二十年来のおつきあい。亡くなる一年半前、通院中の総合病院で受けた超音波検査で肝臓に直径5センチの大きな癌が見つかった。入院治療をすすめられたが、うちに相談に来られ、結論は「時間がもったいない」「さわらぬ神に祟りなし」と放置することに決めていた。一年少し経って、背中と腰の痛みが強くなり入院したが、一切の検査を希望せず、痛みに対するブロック注射やモルヒネの治療だけを行った。最後は希望していた教会の牧師さんに病室に来て立ち会ってもらい天に召された。教会での葬儀に出て賛美歌を歌った。
毎回の回診で、こころがけたことは、
①笑顔で明るく元気に接する。
まだなのであるから、お通夜のような顔をしない。患者は元気のない疲れた顔の医者を好まない。医者が心配そうな顔をするとすごく不安になるものである。
②世間話をする。
末期の患者さんといっても、小春日のように、元気で調子のよい日がある。そんなときは病気をまったく離れて、世間話をしたり、その人の生い立ちや仕事などを聞いて人生を振り返ってもらうようにした。
③その日の具合の悪いところにすぐ対処する。
痛み止めはもちろん。便秘薬や風邪薬や漢方薬をこまめに処方。腰痛や手足の痛みには局所注射やブロック注射。かゆいところには軟膏をつけてホータイ。イボ取りの希望あればOK。ただひとつ、この病気を治してくれという頼み以外はなんでも喜んで応えた。
④自由にしてもらう。
入院の制約をできるだけ取り払う。外出外泊いつでもOK。食べ物・アルコールも自由。好きにしてもらう。退院してみるのもOK。家族の面会いつでもOK。気が変わって、よその病院に移るのもOK。また気が変わって戻ってくるのもOK。
⑤最後のお別れは本人と家族が主役。
ハートモニターで心拍が落ちてきて臨終が間もないと感じられたら、家族をベッドの両側に集め、「最後のお別れです。みなさん手を握ってあげてください」とリードし、自分と看護師は後ろに下がって、その「大切なとき」の邪魔をしないようにした。
などである。

本当は自分の家の自分の寝室で最期を迎えるのが理想的かもしれない。しかし、現実には、家庭環境やケアのわずらわしさから入院を希望する人もいる。この意味で病院で死ぬことは、やむを得ぬ「次善」の手段である。次善とすれば、長年親しんだ近くの「かかりつけ」の病院の世話になりたいと思った人たちがこの方々である。考えようによっては、家の「離れ」でなくなったと思われるぐらいの近所の人もいたわけで、長年つきあって顔見知りの医師や看護師との気持の「近さ」、家庭が毎日病院に来られる「近さ」、この「近さ」こそが、大病院やホスピスでは得られない、町の小病院のターミナル・ケアの良さかもしれない。
どんなにえらい人でも、どんなお金持ちでも、どんなに強い信念を持っていても、自分の思う場所で、自分の思う通りに死ぬということは、今どき、たいへんむずかしいことである。とすれば、曲がりなりにも、自分が望んでいた家の近くの病院で最期を迎えることができた、この三十人のみなさんは、あるいは、ほんとうの「奇跡の人」たちだったのかもしれない。