「病院で「老いの孤独」を考える(抜書) - 橋本治」いつまでも若いと思うなよ から

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「病院で「老いの孤独」を考える(抜書) - 橋本治」いつまでも若いと思うなよ から

壁から剥がれるタイルのように
かくして私は、難病によって4カ月近くの入院生活を送ることになるのですが、入院して二週間ほどたってあることに気がつきました。それは「人間は年を取ると孤独になる」ということです。
「専用病棟に空きがない」ということで、初め私は緊急入院患者の入る雑居房に入れられました。折角入院するのに個室なんかに入ったらなんの経験も出来ないし、余分な金もかかるので「大部屋でいい」と言ったのですが、そこにいる間は、境のカーテンを閉めきって眠ってばかりいたので、周りの状況はなにも分かりません。一週間ばかりたって病室に移されて、そこでもしばらくは眠ってばかりいたのですが、その内にぼんやり気がつきました。
「私の病気に相応する病室」といっても、私は何万人に一人の病気ですから、そこに私と同じ病気の人はいません。他の多くは糖尿病患者です。カーテンを閉めきって寝ているままでも、医者や看護師が「糖尿病の心得」を患者に説明する声で分かります。入退院が繰り返されるたびに、自分とは関係ない「病気の心得」を聞かされて、いつの間にか覚えてしまいました(もう忘れましたが)。
その説明に答える患者の声は、当然中高年男性のものです。カーテンを閉めきって隣のベッドからは、なんの病気か知りませんが、いかにもえらそうなオッさんの「痛ェよォ」という呻き声が聞こえます。きっと、それなりに社会的地位を得た人なんでしょう。「苦しんでいてもエラソー」というのはへんなもので、私なんかは「苦しいのに社会的地位なんかまとってもしょうがないから、もっと素直になればいいのに」とかは思いましたが、そうはいかないところがオッさんの性[さが]で、私はそのエラソーな呻き声を聞きながら、「ここはジーさんの病室なんだな」と思いました。
入院した時、私は六十二歳だったのですが、うっかり「ここで俺は一番年下なのかな」と思ってしまいました。もちろんそんなことはないはずだと思うのですが、その時に私の病室にいた男達の全員が定年を過ぎていたことは確実だと思います。その証拠に、見舞い客が全然来ません。来るんだったら、付き添いで奥さんが来ます。嫁に行ったのか独立してしまったのか、そういう娘が来たことが一度だけありました。奥さんの友人が来て、奥さんと一緒に世間話をベッドのそばでしていることはありましたが、見舞いに来た男の声が聞こえたことはありません。患者が入れ替わって、まだ現役年代の「労働者」系の職種の人が入院した時には、仕事仲間が来て「どうだ?」とか言っていましたが、定年過ぎのホワイトカラーのサラリーマンにそれはありません。ずっと独身だったり、奥さんと死に別れたり離婚した人だと、奥さんも来ません。男にとって、老いというのはそういうものでもあるんだなと思いました。
たとえて言えば、社会はタイル貼りの大きな部屋で、男は壁に貼られた一枚のタイルです。時間の経過と共に、タイルを壁にくっつけるパテやセメントが劣化して、タイルは壁から剥がれ落ちる。「老い」というのはそういうものなんだろうなと、私は病室のベッドで思いました。でも、それで不安になったというわけではありません。逆に、「年を取ったら孤独でもいいんだ」と思って、ほっとしました。
私は一度も就職をしたことない独立独歩の人間で、孤独であることには慣れています。でも、若い時に孤独であるというのは、多く批判の対象です。「友達がいないんだろう」などとからかわれたりもします。独立独歩であっても、社会のありようからずれた方向に行くと「問題あり」のレッテルを貼られてしまいますから、孤立して社会の大筋からはずれてしまわないように、気をつけなければなりません。独立独歩であっても、孤立や孤独はいけないのです。でも、年を取ってしまえば、その自分は壁から剥がれ落ちたタイルで、孤独や孤立は当たり前です。気にする必要はありません。それで私は、「年を取ると孤独でもいいんだ。もう自由なんだ」と思ったわけです。