「寂しい心(抜書) - 春日武彦」猫と偶然 から

 

「寂しい心(抜書) - 春日武彦」猫と偶然 から

精神科医になる前に、わたしは産婦人科医として六年ばかり大学の附属病院に勤務していた。飯田橋に昭和モダンを体現したような古い建物の病院があって(子どもの頃に、わたしはその病院の皮膚科でアトピーと診断されたのだった。現在は、もうその病院は存在しない)、そこで働いていたのだ。
産婦人科のフロアには、回診以外には誰も寄りつかない個室があった。ここには十年近く前から入院している患者がいて、彼女は手術中に麻酔ミスで植物人間となり、病院側が責任を取る形でずっと入院扱いにしているのだった。家族が見舞いに来たのを見たことは一度もない。かなり肥満した中年女性が、目を閉じたまま昏々と眠り続けている。
その患者には、付添婦がいた。六十代前半の痩せた婦人で、ひどく陰気で滅多に口を利かない。大概は薄暗い個室でベッド脇の椅子に腰掛けたまま、小さな電気スタンドで文庫本や雑誌を読んでいるか、それとも編み物をしているかのどちらかである。ただし、決して暇なわけではない。患者は頻繁に体位を変えさせないと褥瘡[じよくそう]が出来てしまうし、それなりの介助があるから、付添婦はあまり長時間病室を離れるわけにはいかない。活字や編み物にも没頭は出来ない。彼女は看護師たちとも打ち解けることはなかった。

その付添婦は患者の親族ではないらしい。純粋に仕事として付き添っている。食事は病院食で済ませ、風呂は病院の地下にある職員用を利用していた。夜は補助ベッドで患者と同じ部屋で寝るが、体位交換のために頻繁に起きなければならない。つまり付添婦の婦人には、病院以外の日常がほとんどないように思われた。年末に数日休みを取る以外は、常に無言の患者の病室に控えている。
これは少々常識を超えた人生である。付添婦である婦人には、彼女なりに複雑な事情があるのだろう。だがこれほどストイックに何年も過ごせるものではない。少々不気味なところすらあった。感情がまったく顔に出ないし、他人を寄せ付けない雰囲気がある。
彼女は確かに超然としていた。同時に、わたしなんかには理解の及びそうにない強烈な孤独感を周囲に漂わせてもいた。コミュニケーションなんか図れそうにない。生と死の中間に立ち止まったまま十年を経過している患者と一緒に、沈黙の日々を過ごしている。わたしは「孤独」という言葉を聞くと、反射的に彼女を思い浮かべてしまう。もし子猫が一匹、病室に迷い込みそうになっても、彼女は決して顔を綻ばせたり手を差し延べたりはしないだろう。雑誌でも丸めて無言のまま威嚇しながら猫を追い出すに違いない。
しかしそれは彼女に血が通っていないからではなく、面倒を避けるために過ぎないのである、たぶん。わたしが産婦人科医を辞めて数年してから、患者のほうは意識を回復しないまま亡くなったらしい。その後、付添婦はどうしたのか、気になって仕方がない。