1/2「鍵(郁子・四月十七日) - 谷崎潤一郎」新潮文庫 鍵・瘋癲老人日記 から

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1/2「鍵(郁子・四月十七日) - 谷崎潤一郎新潮文庫 鍵・瘋癲老人日記 から

夫に取って重大な事件の起った日、私に取っても重大な日であったことに変りない。事に依ると今日の日記は生涯忘れることの出来ない思い出になるのではないかと思う。従って今日一日の出来事は細大隠すところなく刻明に書いておきたいのだけれども、しかしそう云っても早まったことはしない方がよい。矢張今のところ、今日の朝から夕刻まで私が何処でどう云う風に時間を消費したかについては、あまり委[くわ]しくは書かない方が賢明である。とにかく私は、今日の日曜日をいかにして過すかは前から極めて置いたのであるから、その通りにして過ごした。私は大阪のいつもの家に行って木村氏に逢い、いつものようにして楽しい日曜日の半日を暮らした。或[あるい]はその楽しさは、過去の日曜日のうちでは今日が最たるものであったかも知れない。私と木村氏とはありとあらゆる秘戯の限りを尽して遊んだ。私は木村氏がこうして欲しいと云うことは何でもした。何でも彼の注文通りに身を捻じ曲げた。夫が相手ではとても考えつかないような破天荒な姿勢、奇抜な位置に体を持って行って、アクロバットのような真似もした。(いったい私は、いつの間にこんなに自由自在に四肢を扱う技術に練達したのであろうか、自分でも呆[あき]れる外はないが、これも皆木村氏が仕込んでくれたのである)ところで、いつもは彼とあの家で落ち合うと、合ってから別れるギリギリの時間まで、一秒の暇も惜しんで全力的にその事に熱中し、何一つ無駄話などはしないのであるが、今日はふっと、「郁子さん、何を考えているんですか」と、木村が眼敏[めざと]く気がついて私に尋ねた瞬間があった。(木村は疾[と]うから私のことを「郁子さん」と呼んでいるのである)「いいえ別に」と、私は云ったが、その時、ついぞないことに、夫の顔がチラリと私の眼の前を掠[かす]めた。どうしてこんな時に夫の顔が浮かんで来たのか不思議であったが、私が一生懸命にその幻影を打ち消すように努めていると、「分っていますよ、先生のことを考えているんですね」と、木村が図星を指して云った。「どう云う訳か、僕も先生のことが気になっていたところなんです」 - そう云って木村は、あれきり閾[しきい]が高くなって御無沙汰をしているので、近々お伺いしなければならないと思っていた、実は国元へ手紙を出して、カラスミ[難漢字]をお届けするように云いつけてやったのだが、まだ届いていないでしょうか、などと云った。その話はそれで途絶えて、二人は再び享楽の世界に浸り込んだのであったが、今から思うとあれは何かしら虫が知らせたのかも知れない。

......五時に私が帰って来た時、夫は外出中であった。婆やに聞くと、今日も指圧の先生が来て二時から四時半ぐらいまで、昨日より三十分以上も長く治療していた。肩がこんなにひどく凝るのは血圧が高い証拠であるが、医者の薬なんぞ利きはしない、どんなに偉い大学の先生にかかってもそう簡単に直る筈はない、それより私にお任せなさい、請け合って直して上げる、私は指圧ばかりでなく、鍼[はり]も灸[やいと]も施術する、先ず指圧をして利かなかったら鍼をする、眩暈[めまい]は一日で効験が現われる、などとあの男は云ったと云う。血圧が高いと云っても、神経を病んで頻繁に測るのは宜しくない、気にすれば血圧はいくらでも上る、二百や二百四五十あっても不養生をして平気で生きている人が何人もいる、無闇に気にしない方がよい、酒や煙草も少しぐらいは差支えない、あなたの高血圧は決して悪性のものではないから、大丈夫良くなりますと云ったとやらで、夫はすっかりあの男が気に入ってしまい、これから当分毎日来てくれ、もう医者は止める、と云っていたと云う。六時半に夫は散歩から帰って来、七時に二人で食事をした。若筍[わかたけのこ]の吸い物、蚕豆[そらまめ]の塩うで、きねさやと高野豆腐の焚き合せ、 ー 昨日錦で買ってきた材料を婆やが料理したのである。外に六十目程のヒレ肉のビフテキ。(野菜を主にして脂肪分の濃厚なものは控えるように云われているのだが、夫は私との対抗上毎日欠かさず牛肉の何匁[もんめ]かを摂取している。スキヤキ、ヘット焼、ロースト等々いろいろであるが、半生[はんなま]の血のたれるステーキを最も好んで食べる。嗜好よりは必要のために食べるので、欠かすと不安を覚えるらしい) - ステーキは焼き加減がむずかしいので、私がいる時は大概私が焼くのである。カラスミがようよう届いたと見えて、それも膳の上に載っていた。「これがあるからちょっと飲もうか」ということになって、クルボアジエを運んで来たが、沢山は飲まなかった。先日私の留守中に敏子と喧嘩をした時に、夫があらかた壜[びん]を空にしてしまって、底の方にちょっぴり残っていたのを二人で一杯ずつ乾したのであった。夫はそれから又二階へ上った。